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目 次

はじめに(アドルフ・ガランド)
1 大戦最後まで偉大さを発揮
2 空駆ける「サラブレッド」誕生
3 世界をおどろかした改良機
4 スペイン内乱に初登場
5 替え玉で不滅のスピード記録
6 ドイツ空軍、緒戦で圧倒的勝利
7 好敵手の「スピットファイア」
8 武装より性能重点に改良
9 改良機ぞくぞく戦線へ
10 ドイツ空軍、幻のエース
11 ジェット機あらわれる
12 朝鮮戦争までの長い生命
 解説 (野原茂)


はじめに
アドルフ・ガランド

 私は、この『Bf109』に序文を書く光栄をあたえられたことにたいし、心からの感謝をささげたい。
 この序文を書くにあたって、私は、Bf109が、わが人生のすべてであった時代を想いおこした。
 私がはじめて、この飛行機に出あったのは一九三五年〔昭和十年〕であった。そのときメッサーシュミット社の主任テスト・パイロットは、ベルリンの南方六〇キロにあるわれわれのユイーターボーク戦闘機基地に、試作二号機V2を着陸させたのである。
 かれはメッサーシュミットの工場から、レヒリンのドイツ空軍テスト・センターへ試作機をはこぶとちゅうで、この飛行機をみせびらかし、自慢したがっていた。
 私は当時中尉で、戦闘機パイロットであったが、そこで、われわれのハインケルHe51複葉戦闘機と、まだ極秘になっていたBf109単葉機とで、模擬空中戦をやらないかともちかけた。テスト・パイロットは、すぐのってきた。
 いうまでもないが、翼面荷重の大きいBf109を、旋回のとき、ほんろうするのは簡単であった。しかも、テスト・パイロットは優秀であったとはいえ、空中戦の訓練も経験もつんでいなかったので、かれは、Bf109の加速、速度、上昇力などのすぐれている点をうまく利用できなかった。
 さらに、わるいことに、テスト・パイロットは、空中戦のあと着陸のさいに、引っ込み主脚をだす装置をうごかすのを忘れ、みごとな胴体着陸をやってしまった! これは、一生忘れることのできない、見ものであった。
 私はまた、Bf109のおおいのある操縦席にはじめて腰をおろし、視界を念入りに点検したことも、正確におぼえている。
 主任テスト・パイロットは、私に、この飛行機は速度がはやいので、だれも後方から攻撃できない。だから、これ以上、後方の視界を必要としないのだと語った。
 しかし、私は、この意見には賛成しかねた。
 第一次大戦いらいの戦闘機パイロットは、風房によって視界がせばめられている操縦席に、きわめて不満であった。
 空中戦の戦法をつくりあげたこれらのベテラン連中は、この新型機では敵機が背後からせまってきたときは、においでかぎわけるほかあるまいと考えたのである。
 私は一九三七年、スペインでBf109にはじめて乗り、そして一九六八年〔昭和四十三年〕四月、おなじスペインで、映画『バトル・オブ・ブリテン』〔日本名・空軍大戦略〕を撮影したときに、最後のBf109の飛行をおこなった。この間三一年たっていた。
 じじつ、はじめてBf109が飛んだのは一九三五年で、そのご総計約三万三〇〇〇機が生産され、最後のBf109が製作されたのは一九六〇年であった。
 Bf109は、じつに二五年以上にわたって生産されつづけたのであり、このことは、なによりも、この飛行機のかがやかしい歴史の証明書である。
 Bf109は、パイロットのミスを許さない、きびしさをもった飛行機であった。それは、とくに離着陸のときによくあらわれ、胴体にとりつけられたために、間隔がせまく奇妙な角度をもった主脚と車輪のせいであった。とくに横風をうけたときに不安定であったが、このことは、メッサーシュミット教授もよく知っていた。
 降着装置を胴体にとりつけたことによって、ほかの多くの機のように、主翼にとりつけるより、ずっと機体重量を軽減できたのである。つまり、これはBf109の浮揚力を増すための設計上の重要な要素なのであった。
 ドイツ空軍の整備員たちは、のちにチュニス〔北アフリカ〕やスターリングラード〔ソ連〕から脱出するさい、Bf109の大きな浮揚力を高く評価した。それは気持ちよい飛行ではなかったが、パイロットたちは、一度に整備員を二人ずつのせて飛んだのである。
 Bf109E‐1からE‐9まで、エンジンや武装の変更によって、ますます機体がふくれあがり、パイロットや整備員たちはこのBf109を#ふとっちょ$とよんだ。
 Bf109Fになると、空気力学的に洗練された形にもどったが、#ふとっちょ$のあだ名は変わらなかった。
 私は、第二六戦闘航空団の指揮官であったとき、つねに二機のBf109を手もとにおいた。というのは、ほかのBf109が飛行するばあい、自分もかならず飛ぶためであった。
 一九四一年六月二十一日、私は二機とも失ってしまった。
 私は英軍の「ブレニム」爆撃機〔双発中型爆撃機〕の編隊を二度目に攻撃したとき、「スピットファイア」戦闘機一機によって、ひどい損害をうけた。一分もたたないうちにエンジンはとまり、ふきだす煙と燃料から、搭乗機が燃えあがる寸前にあることがわかった。私はやっと胴体着陸し、いそいでとびだしたが、惜しいことに葉巻を置いてきてしまった。
 おなじ日の午後、私は、多くのミスをしてしまった。とくにわるいのは、僚機を一機もつれずに発進して、「スピットファイア」中隊を攻撃したことであった。
 私が「スピットファイア」一機を撃墜した瞬間、こんどはべつの「スピットファイア」が、私の機を撃ちおとした。この英軍機の射撃は、きわめてすぐれていた。
 私が衝撃から回復しはじめたとき、燃料タンクが火をふいているのを見た。私はパラシュートで脱出した。しかし、私の飛行機の損耗率は、そんなに高いものではなかった。私はこのBf109E‐4Nで、二八機を撃墜したと記憶している。私がこの機に、人間にいだくような一種の愛情を感じたとしても、不思議ではあるまい。
 私は、この本を読んでいるうちにこれらの、さまざまの思い出がよみがえってくるのに喜びを感じた。
 Bf109に接触し、それとなんらかのかたちで関係をもった人たちは、数百万人にもおよぶであろう。それゆえ、われわれは、このすばらしい本を書いた著者マーチン・ケイディン氏に感謝するとともに、その成功を熱望するものである。
(元ドイツ空軍中将)


 解説 WW・戦闘機中の人気No.1「Bf109」

野原 茂
 第二次大戦が終結して、すでに半世紀以上が過ぎた。しかし、ミリタリー関連図書の分野では、今もって第二次大戦ものが次々と出版され、読者の根強い興味を反映している。
 航空関係では、世界的な視野でみて、ドイツ空軍関連の出版物が、他を大きくリードし、種類、発行部数ともにナンバー1の座をずっと維持している。
 ドイツ空軍の象徴的存在といっても過言ではないBf109は、その#ドイツ空軍機モノ$のなかで、おそらく最多の出版点数、発行部数を記録しているのではあるまいか。
 マーチン・ケイディン氏が著した本書も、その数多くのBf109本の中の一冊であり、一九六八年に出版された当時、欧米の航空機ファンのあいだで大きな反響を呼んだ。かく言う筆者も、昭和四六年に、サンケイ新聞出版局から出版された、和訳版を夢中になって読んだ記憶がある。あれから、二九年をへて、本書が再刊されることになり、縁あって監修者の立場で、再び本書を読み返す機会が巡ってきた。
 世界的に人気が高いBf109のこととて、この二九年のあいだに、本機に関する研究、調査は想像を超えるレベルで進み、機体そのものの構造、型式識別、各型ごとの生産数など、微に入り細に入り、ほぼ解明され尽くした感がある。
 こうした、現在のBf109研究、調査レベルで、改めて本書を見直すと、ハード面に限ってはさすがに誤りや不備な点が少なくない。だが、三〇年以上も前の執筆ということを考慮すれば、これは止むを得ないことであろう。
 だが、これをもって本書の価値が損なわれたというわけでは決してない。シリーズ第1巻の『零式艦上戦闘機』もそうであったように、パイロット資格をもつケイディン氏ならではの、操縦者の目を通したBf109観が随所にみられ、総じてモノグラム的出版物が多い昨今にあっては、ある種の新鮮さを感じさせる。
 筆者もそうであるが、例えばBf109G‐6のサブ・タイプがどうこう、といった知識はもっていても、実際に本機を操縦するにはどのようなコツを必要としたのか、あるいは設計者、技術者が、いかなる意図をもって改良型を開発したのか、本機と空中戦を交えた敵方のパイロットの評価はどうなのかといった、いわゆるソフト面の知識は意外なほど乏しい。
 その意味において、本機をトータルな見地から知りたいと願う読者にとっては、本書は最適な読み物と言えるだろう。
 再刊にあたっては、型式識別、とくにBf109F型以降に誤り、不備な点が多いので、僣越ながら、筆者の判断により訂正、もしくは補足した部分が少なくない。同様に、写真の選択とキャプションおよび図版関係にも不適当なものが多かったので、これも筆者手持ちのもの、そのほかで全面的に刷新したことをお断りしておきたい。
 ところで、本書の冒頭でも触れたが、一般の読者の方々にとって、メッサーシュミット社の#製品$なのに、なぜMe109ではなくBf109なのかという素朴な疑問が常にあると聞く。その理由については、著者ケイディン氏が説明しているとおりなのだが、Bf109が正しいと判断する理由を、もう少し詳しく説明しておきたい。
 確かに、社名変更後メッサーシュミット社が、公式書類等でMeを使用したのは事実で、これはメーカーである以上、旧社名を使うことはあり得ないから当然であろう。
 しかし、空軍サイドでは、制式採用時点での名称はずっと効力をもつので、社名変更前に採用された機体、すなわち、Bf108、Bf109、Bf110の三機種については、大戦終了までこれが公式名称であった。一九四五年一月付けのBf109G‐10の取り扱い説明書然り、一九四四年七月付けのBf110G‐4の取り扱い説明書然りである。
 現在では、欧米各国から出版される本機に関する本は、ほとんど例外なくBf109に統一されている。
 最後にドイツ戦闘機の人気の高さに、少なからぬ相乗効果を与えている、スーパー・エースと呼ばれる撃墜王たちのスコアについて、筆者なりの見解を述べておきたい。
 本書でも、ケイディン氏は、彼らの撃墜数に関して、否定的な見解をとる連合国側の人たちの言葉を紹介しており、氏自身もやや懐疑的な印象をもっているようだ。
 ケイディン氏が本書を執筆した当時、ドイツ戦闘機パイロットの撃墜査定の方法が、どの程度知られていたのかわからないが、その後の調査では、少なくともガン・カメラを使用した連合軍側のそれよりも、厳しかったことが判明している。
 出撃から帰還したパイロットは、空中戦が行なわれた日時、場所、高度、状況、撃墜した敵機の国籍標識、火災、煙の有無、色、破片の飛び具合、使用火器、弾数など、二〇項目以上の報告書を提出し、僚機、あるいは地上部隊員などによる確認がとれて、はじめて撃墜が認められる。架空の撃墜報告をしても、簡単には通らないシステムになっていたのである。
 確かに、ナチス・ドイツ第三帝国という、ある種異常な国家形態からして、対外的にはプロパガンダのための架空の戦勝を捏造したりした例には事欠かない。しかし、空軍に限らず、軍内部における戦功者の査定はきわめて厳しく、実力のない者が認められるような甘い状況では決してなかった。
 空中戦は、審判がいて、勝敗を確認するスポーツやゲームなどとは訳がちがうので、双方の戦果と損失数が一致することなど、まずないと考えるのが普通であろう。ときには五倍〜一〇倍といった誤差もザラであった。生死を賭けた一瞬の勝負で、いちいち撃墜を最後まで見届けているような余裕はない。
 だからこそ、ドイツ空軍の撃墜査定は、前記したように厳しく、#架空の戦果$がなるべく生じないようにしていたのである。それだけに、彼らのスコアは、それなりの真実味をもっていると考えるべきであろう。
 こうしたことを踏まえ、Bf109の生涯を振り返ってみると、また別の印象がもてるのではあるまいか。

マーチン・ケイディン(MARTIN CAIDIN)
米国UPI通信社航空専門記者として活躍。“Flying Forts !”“A Torch to the Enemy”など宇宙・航空関係の著書は70册以上にのぼる。またパイロットの免許をもち、第2次大戦の4発爆撃機、ドイツBf108から超音速機まで数々の飛行機を操縦した。1997年死去。
加藤俊平(かとう・しゅんぺい)
1918年東京で生まれる。1941年12月東京大学法学部卒業。1943〜45年までフィリピン・ダバオ陸軍病院付主計として勤務。戦後、サンケイ新聞社に入社。朝鮮戦争に国連軍記者として参加。モスクワ支局長、外信部長、ワシントン支局長、論説委員、調査部長を歴任した。訳書に『天皇の決断』『ヒトラー暗殺事件』『ニュールンベルク裁判』『虐殺・アウシュビッツ』『ドイツ参謀本部』など多数。
野原 茂(のはら・しげる)
1948年生まれ。雑誌社勤務をへて、1978年よりフリーの航空機イラストレーター、ライターとして各種単行本などを多数手がける。第2次大戦機、とりわけ日本、ドイツ機を中心とした調査、資料収集に力を注いでいる。