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2007年4月7日、三島瑞穂軍曹が肝臓ガンで亡くなられた。享年68歳。入院した時点で末期ガンと分かり手遅れだったいう。それより少し前の2月5日、南米パラグアイの首都アスンシオンでテッド・新井さんが強盗と格闘の末、頭部に銃弾を受けて戦死された。享年76歳。
私は平成元年(1989年)に並木書房を立ち上げたが、お二人ともスタート間もない並木書房を支えてくれた、かけがえのない作家だった。
三島さんのデビュー作『グリンベレーD446』は、その年の6月の出版で、何度も版を重ね、その後増補されて講談社で文庫になった。
テッドさんの最初の本は『テッド・アライのコンバットシューティング』で、翌90年に刊行した。いま会社の書棚にはこの2冊を遺影代わりに飾っている。パラパラと頁をめくると、その時どきのことが鮮やかに目に浮かぶ。
三島さんからは原稿が出来上がった順にファックスで送られてきた。はじめはいったいどんな構成なのかさっぱり分からず、最後に部屋中に原稿を並べながらまとめて本にした。
編集作業に先駆けて、当時ボストンに住んでいた三島さんを訪ねた。初対面の三島さんは実にぶっきらぼうで、私は気圧され、原稿を本当に書いてくれる気があるのか不安になった。ところが、その三島さんが自宅のドアを開けたとたん、「リサたーん」と大声をあげて、生まれて間もない娘さんを抱きしめたのには本当にびっくりした。一見気難しげに見える三島さんの素顔を見た思いだった。私は、フッと肩の力が抜け、そのとき三島さんとの距離が縮まった。
翌日には三島さんに連れられ、国内線を乗り継ぎ、特殊部隊の本拠地フォートブラッグを案内してもらった。三島さんが鍛えあげた当時の部下や新米の士官が今も部隊に残り、ある人は大佐に昇進し、三島さんを大歓迎してくれた。
帰りに寄った基地内のバーでは、三島さんが仲間全員にバドワイザーをおごり、しばらくすると、その仲間からビールのお返しがくる。戦友という心を許せる仲間に囲まれた三島さんの豊かな人生を感じさせる光景で、その印象は今に至るまで変わらない。
テッドさんとは、ロスの空港で待ち合わせた。強面風なサングラス姿だったが柔和な眼差しを感じた。挨拶もそこそこに空港から愛車のピックアップトラックで、モハベ砂漠を目指す。途中のドラッグストアで、「必要な飲み水を買うように」と言われたが、まるで見当がつかなかった。
その晩はテッドさんの射撃場のあるランチで泊まったが、「オレは車で寝る。キミはあの小屋で寝るように」と言って、さっさと車に引き上げてしまった。ランチは警備用にシェパードが数匹飼われていて、小屋の周りを徘徊している。しかも小屋は金鉱発掘時代に建てられたような年代物で、古ぼけたベッドが1つあるきり。しかも深夜、家の周りをぐるぐる歩き回る人の足音が聞こえ、寝られる状況ではなかった。あとでここは幽霊がよく出ると聞かされ、ゾッとした。テッド氏本人は聞いてもニヤニヤするだけだったが、不思議な体験だった。
テッドさんの本は計2冊作り、どちらもモハベ砂漠の射撃場に寝泊まりしながら、炎天下に写真撮影を強行した。親分肌のテッドさんの周りには、つねに大勢の弟子たちが集まり、ロスの自宅はまるで梁山泊のようだった。いずれも魅力的な面々だったが、離合集散が激しく、テッドさんを含めて、それぞれが一匹狼の集まりだった。
三島さんとの交流はその後もずっと続き、昨年、三島さんの後輩にあたる飯柴智亮中尉(中尉から弔文が届いたので下に掲載してあります)を引き合わせたのが最後の打ち合わせだった。
テッドさんとはすっかり交流が途絶え、一昨年夏に突然、手紙が届いた。そこには「南米に活動拠点を移した」と記されていた。南米で何をするつもりかは分からないが、何かとてつもないことをテッドさんは夢見ていたのだと思う。
お二人の訃報を相次いで知り、いまもショックから立ち直れていない。
三島さんの葬儀はロスで4月16日に行なわれる。その様子は後日教えてもらえることになっている。
14日、私は、千葉に住んでいるテッド氏のご遺族を訪ね、詳しい事件の経緯を聞き、ご遺骨と対面し、焼香してくる予定だ。
それぞれの人生を精一杯に駆け抜けた大先輩の冥福を心よりお祈りします。そして、お二人の著書を世に送ることができたことは、出版人としての私の勲章です。合掌。
並木書房 なすだ
【飯柴智亮中尉からの追悼の言葉。】
三島瑞穂一等軍曹(退役)は、21年間もの長い間米陸軍に在籍し、その多くを特殊部隊に所属して過ごしました。
発足直後の赤ん坊のようだった特殊部隊を今日のように成長させたその多大な功績を自分は尊敬し、米陸軍の大先輩として慕ってきました。その三島軍曹が突然亡くなった事は、本当に残念でなりません。
三島軍曹の冥福を心から祈ると同時に、『三島軍曹、米陸軍は大丈夫です!今まで本当にお疲れ様でした。後は安心して自分達に任せて下さい!』の言葉を贈り、この場を借りてご挨拶とさせていただきます。
飯柴智亮
米陸軍中尉
【三島軍曹の葬儀に参加された小関ミホさんからの追悼の言葉。】
4月16日、三島さんのご葬儀は、ご自宅のあるトーランス郊外の「グリーンヒルズメモリアルパーク」という場所で、多くのお花に囲まれてしめやかに執り行われました。
参列者は平日の葬儀ということで5〜60名ほどでしたが、現役の特殊部隊員とSFアソシエーションの方々が多数参列され、三島さんのご兄弟と三島さんの現役時代の話をされていました。
家の中では、日本のような祭壇を設けておらず、たくさんの三島さんの写真と思い出の品々がテーブルに飾られていました。
写真に見える季節はずれの雛人形は、3月に三島さんが帰国されてから家族皆でしまおう、という約束だったのですが、帰国直後から体調を崩されていたので片付けることができず、そのまま永眠されてしまったので、ご葬儀が終わって落ち着くまで飾っておくとの事でした。
私がロスに着いたときには、すでに部屋の整理が始まっておりましたが、三島さんの部屋の机の周りは手付かずで、ほぼそのままでした。
多くの書類や資料に囲まれ、穏やかな日差しが差し込む部屋で、コーヒーをいれ、常にテレビやCDを家の中でかけて仕事をされていたそうです。

三島さんはいつも帰国されると、仕事で取材に出かける以外は家にいることが多かったそうです。
三島さんにとっては最も居心地の良い場所がロスの家であったのだと、現地に行って実感しました。
三島さんが旅立ってから2週間が経ちましたが、今でも葬儀の事を思い出すと涙が出てきます。
私にとって三島さんは、単なる仕事のパートナーや飲み友達ではなく、父のようでもあり、人生の師でもありました。彼と出会えたおかげで、私の人生はとても大きく変化し、自分の生きてゆく道が定まったといっても過言ではありません。
それゆえ、いまも悲しみは大きいのですが、残されたご家族のため、そして三島さんのために出来る限りのことをして行くのが、私の務めだと思っております。
小関美穂

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