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「訳者まえがき」にかえて 震災とサバイバル技術

▼はじめに
  サバイバルの世界では、人間を「大脳皮質を発達させた、思考する生きもの」と定義する。つまり、知恵をもつ動物ということである。
  この知恵こそが、自然界では他の動物に比べて格段に身体能力が劣る人間の最大の武器である。
  と同時に、我々の最大の武器であるはずのこの知恵が、サバイバルでは最大の弱点となることも忘れてはならない。
  たとえば人間は極度の恐怖におびえると、目の前で起きていることに目をつぶりがちになる、という事実である。これは大脳皮質を発達させた人間特有の現象で、我々は自分の知らない、あるいは想定していなかった事態に遭遇すると、どう行動してよいか分からないまま現状維持を選択し、ついには都合のよい、楽観的な解釈を勝手に組み立ててしまい、それにすがってなにも行動しなくなってしまうのである。
  これは「正常性バイアス」とも呼ばれる心理状態で、異常を見ても「見ないことにしよう」とする心的反応である。とくに集団で行動していたり、地域社会が固いきずなで結ばれている場合には、「寄らば大樹の陰」ではないが、たとえ危険が迫っていても、皆が避難しないのを見て、「皆が避難しないのだから大丈夫のはず」と安心しきってしまう「同調バイアス」と呼ばれる心理状態も加わるので注意したい。
  しかも、人間のこうした心的反応は時間的長短を問わない。目前の危険を見て見ないふりをするのはもとより、近い将来に迫っている危険に気づいていても、目をつぶるといったことが起きるのである。
  しかし二〇一一年三月一一日の東日本大震災によって引き起こされた津波は、海沿いの市町村に壊滅的な打撃を与え、福島第一原子力発電所の損壊事故による放射能汚染問題もいまだ終息していないのは事実であるし、さらに今回の大震災を契機に日本列島全体が地震の活動期に入り、近ければ明日にも、長くても数十年以内に東日本大震災クラスの大地震が再び、日本のどこかで発生する可能性があるのも、眼前に存在する厳然たる事実である。
  サバイバルを論ずる場合、「想定外」という言葉は禁句である。起きる確率は問題ではない。「どのような状況であれ、絶対に生きる」と誓ったサバイバーなら、たとえ災害や事故の発生確率が一パーセントでも、すべての「もしも」に備えておかねばならないからだ。
  我々は家族を守るために、すべての「もしも」に備えておかねばならない。
  今回の新版発行にあたり、この一項をあえて「まえがき」に置くのは、読者一人ひとりに自分の家族を守ってほしいからである。
  我々は未曾有のサバイバル状況を体験し、今なおサバイバル状況下にあることを、絶対に忘れてはならない。

▼本書の使い方
  本書は、この「もしも」のために編まれている。「訳者あとがき」に記したように、本書の原本は、本来は戦場に赴く米国陸軍兵士のための教本だが、「一パーセントへの備え」という基本的な発想法は変わらない。
  たとえば第23章に記した「核・生物化学兵器から身を守る」である。
  一九八二年に朝日ソノラマ社から本シリーズの第一冊『サバイバル・マニュアル』を刊行したとき、「放射能汚染」に関するページは、原本でもわずか数ページであった。そのページは、一〇年後に第二冊目の新版『サバイバル・ノート』を同社から出版した際には割愛された。なぜなら、朝日ソノラマ社の編集会議で「原発事故や生物化学兵器は非現実的であり、掲載するといたずらに恐怖をあおる結果になるのでは」とする意見が採用されたからである。
  しかし、一九九一年のソビエト連邦解体に伴う核物質の流失懸念と、一九九五年に発生したオウム真理教による地下鉄サリン事件の発生により、米国国防省は該当ページを大幅に加筆した。それを受け、二〇〇二年にシリーズの出版を並木書房に移し、「完訳を目指したい」とする編集担当者の希望に合わせて、書名も『米陸軍サバイバル全書』とし、今日に至っている。
  そして、かつては「非現実的」と称されたことが起きた――。
  不幸なことだが、本書の根底をなすサバイバーとしての発想が正しいことが証明されたのである。訳者としてはこの事実をもって、「一パーセントの確率であっても、もしもに備える」読者が一人でも多くなり、あらゆる場面で「もしも……」の発想を日常的に行なえるサバイバーが増えることを望む。
「核・生物化学兵器から身を守る」に記述されている内容についていえば、無論それは汚染の第一次段階での諸注意であり、将来にわたって「これでよい」とする諸注意ではない。あくまでも汚染地域からの生還を果たすためのものであり、一時的なものである。
  しかし、我々が現在直面しているサバイバル状況は一時的なものではない。長期にわたるものである。いわば、読者一人ひとりが自分で考え、決断し、行動しなければならない状況である。そうしたサバイバル教本は世界のどこにもないが、その方法を得ることは決して困難ではない。サバイバーとしての判断基準、行動基準をどこに置くのか。本書を通して学べば可能である。
  そのためには、まずは本書を以下のように読むとよい。
@はじめにざっと目を通し、行動手順を頭に思い描いてみる。
Aその際、各章のサバイバル技術を使う場面を具体的に想定し、思い描いてみる。
  とくに想定場面の主人公は自分自身にして、想定する状況は具体的であればあるほどよい。これにより、たとえ練習しなくてもシミュレーション効果で頭の片隅に残る。それだけでいざというとき、慌てずに行動できる。
B衣食住に関する技術は、可能なかぎり実践練習をする。
  現代はガス・水道・電気などの公共サービスが充実しているため、焚き火の起こし方や焚き火での調理方法を知らない世代が増えているが、これらの生活技術は日本でもついこの間まで全国的に行なわれていた、我々の祖父母をはじめ高齢者にはなじみ深いものである。周囲に高齢者がいれば、地震想定訓練がてら教わるとよいだろう。
C保健衛生の知識は必須である。
  人工呼吸や負傷者の運搬方法、止血方法など保命救急に関する手順は絶対に練習する。災害時以外にも必ずや役に立つ知識である。
Dそして最後に、各章に貫かれている判断基準や行動基準がどんなものなのかを考える。
  これにより、本書で展開される個々のサバイバル技術が、想定される場面以外にも臨機応変に応用できるようになるはずである。

▼災害への備えと家族訓練
  家族を災害から守ることを唯一最大の目的とした場合、家族全員で訓練するのが望ましい。それには、行楽シーズンに家族で登山とキャンプをするとよい。
  災害時のサバイバル状況ではライフラインが寸断され、それまでの生活システムが崩壊する。先述したように、人間はそうした状況に投げ入れられると、パニックになりやすく、家族の誰か一人でもパニックに陥ると、家族全員が行動に制約を受ける。しかし人間は、事前に事態を想定しておくと、状況を見事に乗り越えられる生きものでもある。また、日頃からアウトドア・スポーツに慣れ親しんでいる者ほど環境変化からのストレスに強く、困難な状況を早期に切り抜けられる率が高いこともさまざまなサバイバル事例から判明している事実である。
  災害想定訓練といえば九月一日が「防災の日」に定められているが、消火器の使い方あるいは避難経路を歩くといったこれまでの訓練は、今回の東日本大震災にはまったく役に立たなかった。訓練すべきは、即応行動と自然災害をやり過ごした後、救援がやってくるまでの耐乏訓練でなければならなかったのだが、従来はこの視点が欠落していた。
  登山では、衣食住のすべてを自分で行なうから、生活の知恵が自然と身につくし、天候の変化があるから、環境変化によるストレスに耐性ができるスポーツである。また焚き火が可能なキャンプ場なら、家族で薪を使った煮炊き訓練が可能だし、溜まり水を煮沸消毒して飲む訓練さえできる。さらに家族単位のキャンプでは、一人ひとりの役割が自然と決まり、家族単位での行動様式も自然と身につく。小さな子供がいる家庭はなおさらのこと、楽しいキャンプ遊びで子供たちにさまざまな知識とストレス耐性を十分に身につけてやってほしい。

▼サバイバーとしての自覚
  災害は、いつどこで起きるか分からない。問題は、仕事先で地震が発生し、帰宅できない場合である。
  そのためにも、いつ地震が起きてもよいように、家族がいる人は自宅に一週間分の飲料水や食料を準備するのはもとより、最低限のキャンプ用品を買いそろえておくとよいが、仕事先で地震などの災害が発生し、家族のもとに帰ろうとする場合、歩いて帰宅できる距離はその人の体力と靴の適否による。
  一カ月に百キロ程度のジョギングをしている人なら五〇キロを歩き通す体力はあるはずだが、ビジネスシューズを履いている場合は一五キロを歩けるかどうか微妙なところだ。運動を全くしていない人なら、ビジネスシューズを履いて徒歩帰宅しようとしても、不可能に近い。
  家族のためにサバイバーを目指すなら、明日にでもウォーキングから始め、体力をつける必要がある。そして仕事先にはスニーカーを準備しておくか、日頃からビジネスシューズを履かず、アウトドア用のシューズを履くことである。しかし地震なら、発生当日に天候がよいかどうかは分からない。帰宅経路に瓦礫があるかどうかも不明である。すべての条件に合致した靴底はどれか、サバイバーなら自分に合った靴を探すくらいの努力をしてほしい。これは家族一人ひとりにもいえる。東日本大震災直後は、さすがにハイヒールを履く女性が少なかったが、最近は再びハイヒールを履く若い女性が目につくが、言語道断といわざるを得ない。
  家族のためにサバイバーを目指すなら、運動を生活に取り入れ、服装もさまざまに工夫するなど、生活様式自体を見直す必要がある。それがサバイバーとしての自覚である。
  その自覚をもって初めて、いざというときに余裕をもって自分自身を救え、さらに家族や他者をも救えるようになることを忘れてはならない。
  東日本大震災では、若い人を中心に被災地でボランティア活動を行なう人が増えた。本書の読者でボランティア活動を希望する人も多いことだろう。そういう人には『NGO海外フィールド教本』(鄭仁和著・並木書房)を読んでほしい。もともとは国際支援活動のために書いたものだが、ボランティアをする際に必要となる体力トレーニングの方法を、国内でどのように積んだらよいのか、また山岳地で行なう野外身体トレーニング法の概要、あるいは、ボランティアとは何かを書いておいたから、家族のためにサバイバーを目指す読者にも役立つだろう。

 本書に書かれている事柄は、決して特殊な技術ではない。衣食住の知識に関していえば、世界の九割ほどの人たちが今なお本書に書かれているような生活知識とほぼ同じ知識をもって生活している。本書はそれを少しだけ科学的に記述しようとしただけである。したがって本書の知識を特殊なものと考えてはいけない。そう考える私たちの生活の方が、世界の九割の人から見れば特殊なのである。私たちの社会が抱える地震など災害に対する脆弱さとは、現代社会が機能しなくなることから来る脆弱さなのである。そのことを考え、家族ごとに家族の安全を確保する工夫を話し合って欲しいと願う。

 

 


目次

「訳者まえがき」にかえて
震災とサバイバル技術(鄭 仁和)  1

第1章 はじめに 13

サバイバル行動  13
サバイバルのパターン  16

第2章 サバイバルの心理学 17

ストレスを直視する  17
サバイバル時の心的反応  20
サバイバルの心構え  23

第3章 サバイバル・プランニングとサバイバル・キット 25

事前想定計画の重要性  26
サバイバル・キット  26

第4章 基本的なサバイバル医療 28

健康維持に必要なもの  28
緊急医療  33
救命手順  33
骨と関節の怪我  39
咬み傷と刺し傷  43
さまざまな傷  47
環境障害  50
薬 草  52

第5章 シェルターを作る 52

シェルター用地の選び方  53
シェルターの種類  53

第6章 飲料水を確保する 69

水が得られるところ  69
蒸留装置の作り方  74
水の浄化方法  78
水の濾過方法  78

第7章 火を使いこなす 79

火の基本原則  80
場所の選び方と準備  80
焚き火の材料の選び方  82
焚き火の組み方  82
火のつけ方  84

第8章 食料を調達する  88

食物としての動物  88
ワナと仕掛け  95
小動物用ワナ  108
釣 具  109
獲物の調理と保存の方法  116

第9章 植物のサバイバル利用法 121

植物の可食性  121
薬用植物  129

第10章 有毒植物から身を守る 132

どんな毒があるか  132
植物の知識をもつ  132
有毒植物を避ける法  133
かぶれとただれ  133
毒物のサイン  134

第11章 危険な動物を避ける 135

毒虫と毒グモ  135
ヒ ル  138
コウモリ  138
毒ヘビ  138
危険なトカゲ  140
川の危険な生物  140
湾内と河口の危険な生物  141
海水域の危険な生物  141

第12章 武器・道具・装備を確保する 145

棍 棒  145
刃 物  147
その他の役に立つ武器  150
縄や紐を手に入れる  152
リュックサックの作り方  153
衣服と断熱材  154
調理と食事用具を作る  155

第13章 砂漠でのサバイバル 157

地 形  157
環境条件を知る  159
水の重要性  162
熱障害とその対処法  164
熱障害の予防法  164
砂漠での危険  165

第14章 熱帯でのサバイバル 166

熱帯の気候  166
密林の種類  167
密林を移動する  169
移動踏破の秘訣  170
直ちに考えるべきこと  170
飲用水を入手する  170
食料を確保する  172
有毒植物  172

第15章 寒冷地でのサバイバル 173

寒冷地とその位置  173
風冷効果に注意する  174
寒冷地サバイバルの基本  174
衛生に注意する  177
健康上の危険  177
寒冷障害の対処法  178
シェルターを作る  182
焚き火を作る  185
飲料水を確保する  188
食料を手に入れる  189
北極の食用植物  191
寒冷地帯での移動法  191
天候の変化に注意する  192

第16章 海上でのサバイバル 194

外海での遭難から脱出  194
渚でのサバイバル  221

第17章 渡河技術をマスターする 224

大小の河川を渡る  224
急流の渡り方  225
筏を作る  228
さまざまな浮具  231
その他の水系障害物  232
水性植物による障害  233

第18章 野外で方位を確認する 234

太陽と影を利用する方法  234
月を利用する方法  236
星を利用する方法  237
応急型方位磁針の作り方  239
その他の方位判定法  239

第19章 救助信号を送る 240

各種の信号技術を学ぶ  240
信号手段  241
コード標識と合図  248
航空機誘導手順  248

第20章 非友好地域でのサバイバル 252

計画段階  252
帰還遂行  254
友軍支配地への帰還  258

第21章 偽装技術を学ぶ 260

個人偽装のテクニック  260
静粛移動法  263

第22章 現地住民と接触する 265

現地住民との接触法  265
サバイバーの作法  266
政治的信義の変化  267

第23章 核・生物化学兵器から身を守る 268

核兵器への対処法  268
生物兵器への対処法  280
化学兵器への対処法  284

 

付録A サバイバル・キット  287
付録B 可食性植物と薬用植物  289
付録C 有毒植物  345
付録D 危険な虫・クモ・サソリ・ダニ  354
付録E 危険なヘビと爬虫類  359
付録F 危険な魚と軟体動物  388
付録G 雲による観天望気  394
付録H 事前想定対処計画の書式  397

訳者あとがき  403

SURVIVAL FM21-76
HEADQUARTERAS, DEPARTMENT OF THE ARMY

鄭 仁和(てい・じんわ)
1948年東京生まれ。上智大学卒業。文筆業。日本シーサンパンナ文化協会会長、在日シャン人文化友好協会顧問。著書に『幻のアヘン軍団』(朝日ソノラマ)、『いつの日か海峡を越えて』(文藝春秋)、『遊牧』(筑摩書房)ほか。サバイバル・シリーズの編訳書に『アメリカ陸軍サバイバル・マニュアル』『最新版サバイバル・ノート』、国内用に書き下ろした『アメリカ陸軍サバイバル・テキスト』(いずれも朝日ソノラマ)、『NGO海外フィールド教本』(並木書房)などがある。