「北極海戦略研究会」発足の経緯と目的
北極海をめぐる中ロの軍事的かつ経済的な連携と出現する北極海航路は、わが国の安全保障環境に極めて重大な影響を及ぼしかねない。それは「国家安全保障戦略」など安保3文書の見直しに緊要な視点であり、勉強会を発足できないか──という意見に、その場にいた有志が賛同、2025年7月、「北極海戦略研究会」がスタートした。
もちろん発足のきっかけは、本文で詳述したように、トランプ米大統領が、2期目に就任する直前の2024年12月、「アメリカにはグリーンランドの所有と管理が絶対に必要だ」と発言し、北極海に位置するデンマーク自治領のグリーンランドを領有する意欲を示したことであった。
欧州の同盟国に対し、北極海に出現する脅威への気づきを促した発言とも読み取れたものの、武力による併合の可能性にも言及するトランプ氏に対し、デンマーク政府は「グリーンランドは売り物ではない」と反発、国際社会もそれに同調、さらに国内外のメディアの論調も「領土を力ずくで奪い取ろうとする時代錯誤の野心にあきれる」などとトランプ氏への批判に終始していた。
だが、こうしたトランプ劇場≠ノ目を奪われて、日本の安全に重大な影響を及ぼす危機の兆候を見逃してはならない。それは、地球温暖化で北極海の融氷が速まり、まもなく欧州とアジアを結ぶ北極海航路が誕生し、日本列島が中国の新たな海上交通路(シーレーン)に取り囲まれてしまうからだ。その時、いったい何が起きるのか。それを深く考察すると同時に、わが国の新たな安全保障戦略を打ち出す必要があるのではないか──ということが研究会の目的となった。
「日本安全保障戦略研究所」(SSRI)に所属する米国の防衛・安全保障政策の専門家、ロシアと中国の軍事戦略に精通する研究者、日本の防衛問題を取材してきたジャーナリスト、海洋国際法の専門家、さらに自衛隊時代に自ら防衛計画の策定に関わってきた戦略家の5人が、毎月のように都内の事務所に集まっては意見交換し、ブラッシュアップしてきた内容が、今回『北極圏争奪戦─激変する日本の防衛線』として結実したのである。
実は、研究会が発足した当時は石破茂政権で、安保3文書の見直しは2027年末に予定されていた。ところが昨秋、高市早苗政権が誕生するや、ウクライナ戦争や米国とイスラエルによるイラン攻撃等で、無人機(ドローン)やAI(人工知能)を駆使した新しい戦い方に注目が集まり、3文書の見直しが1年前倒しとなった。
このため研究を早め、急ぎ意見を集約することになったが、日本が直面することになる脅威を前提に、同盟国・米国とのさらなる連携の必要性等に基づき、南西方面にシフトしている今の日本の防衛戦略を、北方も加えた2正面重視戦略に転換する必要があるという方針を、さまざまな根拠に基づき打ち出すことができたと自負している。
目 次
はじめに 1
第1章 激変する日本を取り巻く戦略環境. 17
1、いま何が起きているのか 17
中国が企てる戦後最も厳しく複雑な安全保障環境 17
2、誕生する「北極海航路」とは 21
融氷進む北極海に新航路が誕生 21
北極海航路が日本の地政学に与える影響 25
マラッカ・ジレンマから解放される中国 27
3、常態化する中ロの軍事行動と対日圧力 29
急速に進む中ロの軍事連携 29
海と空における中ロの対日軍事行動 31
すでにはじまっている中国のシーレーン防衛 35
4、増大する脅威と日本の備え 38
中国が繰り返す常態化戦略 38
ロシアが中国に提供する軍事的貢献 40
日本の現状と急ぐべき対応策 41
米国および同志国との連携 45
5、残された課題 47
危機感が足りない日本の北極政策 47
無防備な日本の土地取引と買い漁る中国資本 50
第2章 米国と北極圏 55
1、グリーンランドに執着するトランプ政権 55
なぜグリーンランドなのか 55
新たな脅威から米本土を守るゴールデン・ドーム構想 57
冷戦時代の静かな戦場がよみがえる 60
天然資源の宝庫に忍び寄る中国 63
なぜグリーンランドの領有が必要なのか 66
2、歴史的経緯から見た米国の北極との関わり 70
第2次世界大戦まで 70
冷戦時代 72
ポスト冷戦時代 74
3、現代の米国の北極圏に対する取組み 77
トランプ政権第1期(2017〜2020年)77
バイデン政権による新たな国家北極戦略 79
際立つロシアと中国への警戒 81
4、北極圏における米軍の現有能力と課題 84
米軍の組織と編成 84
北極圏沿岸警備隊 85
砕氷船不足に対応できない造船業界 87
捜索救難(SAR)任務 90
5、本章の結びとして 91
第3章 中国とロシアの北極海への野望 93
1、トランプ大統領が北極海に固執する背景 93
ロシアと米国にとっての北極海の重要性 93
2、ロシアの北極海への野望 95
核戦略と深く関係するロシアの北極海戦略 95
ロシア版A2/AD(接近阻止/領域拒否)戦略 97
北極海を支えるロシア海軍部隊 100
米国への核ミサイル攻撃は北極海上空を通過 102
ロシアのエネルギー戦略と北極海 104
3、中国の北極海への野望 107
中国が『北極政策白書』を策定 107
中国の「一帯一路」構想と北極海 109
中国の北極海をめぐる近年の動向 111
4、北極海をめぐる中ロの連携と今後の見通し 115
中ロ警戒から接近へ 115
ロシアのエネルギー戦略における中国の重要性 116
中国との連携に関するロシアの本音 118
バルチック艦隊の失敗は2度とない 120
5、中ロ軍事連携への対抗措置 122
緊急対処体制を構築し、中ロの離反を目指せ 122
エネルギー協力を梃子にした中ロの離反 126
安保3文書で欠落した視点 128
第4章 国際法から見た北極海と北極海航路 130
1、北極海の今 130
北極評議会の活動と課題 131
2、ロシアの海洋権益の拡大 133
ロシアによる北極海資源へのアクセス 133
拡大するロシア沿岸の航行可能海域 134
北極海沿岸のロシア領海の通航権 135
3、ロシアの北極海航路と通航規制 136
ロシアの北極海航路の設定 136
ロシアの北極海航路における通航規制 138
4、ロシアの国際法に対する認識 140
国際法違反を繰り返すウクライナへの軍事侵攻 140
ロシアが不法占拠を続ける北方4島 142
ロシアの国際法認識 144
5、ロシアより酷い中国の国際法認識 145
自国本位の国際法解釈 145
明白な国際法違反の人工島建設 147
国際仲裁裁判所の裁定は「紙くず」発言 149
尖閣周辺における日本への嫌がらせ 150
中国の国際法認識 151
6、北極海航路の利活用にともなう日本の重要5海峡問題とは 153
日本周辺のシーレーン管理の意義 153
重要5海峡の3カイリ領海凍結の問題 154
重要5海峡のEEZを通航する船舶 157
国際海峡と通過通航権 158
重要5海峡に分離航路帯設置を急げ 160
第5章 日本にいま必要な安全保障戦略 163
1、日本にとっての安全保障態勢の骨格 163
日露戦争で完成した安全保障態勢 163
第2次世界大戦後の安全保障態勢 165
2、第2次世界大戦後の日本の安全保障政策の変遷 166
敗戦直後の安全保障政策 166
日本の独立回復 168
自衛隊創設 169
冷戦期における安全保障政策 175
ポスト冷戦期における安全保障政策 181
3、現状の日本の安全保障政策 183
「安保3文書」における我が国周辺の情勢認識と日本の目標 183
「安保3文書」で述べる安全保障政策の重点 185
最近の中国の動き 186
4、南北2正面重視型戦略への転換 188
南西に加えて北方を重視せよ 188
日本の独自戦略として中ロの分断を図れ 193
米国の戦略と整合させよ 197
5、「安保3文書」改訂への政策提言 202
おわりに──「安保3文書」改定への提言 206
安全保障環境はすでに新たな局面へ 206
日本がとるべき新たな戦略とは 208
防衛力整備は「速度」が勝敗を決める 210
「北極海戦略研究会」発足の経緯と目的 212
一般社団法人「日本安全保障戦略研究所」(SSRI)
SSRIは日本郷友連盟内に2006年に設けられた安全保障戦略研究センターが前身で、より自由な調査研究のために同センターを離れ、2019年に法人認証を取得し、独立の研究機関として現在に至っている。活動の目的は、大きく変化する安全保障環境に関連する内外の政治情勢や世界の軍事情勢などに関する調査研究を行なうことを通じて、日本の安全保障戦略の確立を目指している。年2回の公開安全保障セミナーを実施し、研究成果を発表しているほか、月刊誌「SSRI Monthly」を発行。交流の深い台湾の国防部や教育部などから研修生を受け入れ、安全保障に関わる人材の育成にも注力している。
執筆者経歴
〈第1章執筆〉
勝股秀通(かつまた・ひでみち)
日本大学危機管理学部特任教授、日本安全保障戦略研究所(SSRI)上席研究員。青山学院大学卒。1983年に読売新聞入社。東京本社社会部で警視庁、東京地検などを担当後、93年から防衛省・自衛隊を担当。99年に民間人として初めて防衛大学校総合安全保障研究科(第1期生)を修了。その後、防衛問題と危機管理の専門記者として、解説部長兼論説委員、編集委員など歴任。2015年に日本大学教授に就任、24年から現職。著書は『自衛隊、動く』(ウエッジ)、『検証 危機の25年』(並木書房)など。
〈第2章執筆〉
小野田治(おのだ・おさむ)
防衛大学校卒。航空自衛隊西部航空方面隊司令官、航空教育集団司令官を歴任し2012年に退官。ハーバード大学上席研究員、(株)東芝顧問を経て、現在は一般社団法人日本安全保障戦略研究所上席研究員、一般財団法人平和安全保障研究所理事など。主な共著書に『台湾有事と日本の安全保障』(ワニブックスPLUS新書、2020年)、『台湾有事どうする日本』(方丈社、2021年)、『陸海空軍人によるウクライナ侵攻分析』(ワニブックス、2022年)などがある。
〈第3章執筆〉
佐々木孝博(ささき・たかひろ)
富士通ディフェンス&ナショナルセキュリティ(株)主席研究員、広島大学法学部客員教授、日本安全保障戦略研究所研究員、博士(学術)〔広島大学〕。1986年防衛大学校卒業、海上自衛隊入隊。米海軍第3艦隊司令部連絡官、豪海軍大学留学。その後、ゆうべつ艦長、駐ロシア防衛駐在官、第8護衛隊司令、統合幕僚監部サイバー企画調整官などを経て、2018年防衛省退職(海将補)。著書に『近未来戦の核心サイバー戦』(育鵬社)、『現代戦争論』(ワニブックス)、『軍艦進化論』(ワニブックス)など。
〈第4章執筆〉
井晉(たかい・すすむ)
日本安全保障戦略研究所(SSRI)理事長、日本防衛法学会名誉理事長。青山学院大学卒、同大学大学院法学研究科修了、同研究科博士課程単位取得済退学。防衛省防衛研修所に国際法担当助手として入所、第2研究室長を経て防衛研究所図書館長で退官。笹川平和財団特別研究員として『島嶼研究ジャーナル』、『The SPF Review of Island Studeies』の編集を担当する傍ら青山学院大学国際政治学部などの講師を務める。著書は『国連安全保障法序説─武力の行使と国連』(内外出版)などのほか国際法関係の論文多数。
〈第5章執筆〉
小川清史(おがわ・きよし)
1960年徳島県生まれ。防衛大学校卒。陸上自衛隊入隊後、陸自幹部学校指揮幕僚課程卒業。米陸軍歩兵学校及び米陸軍指揮幕僚大学指揮幕僚課程など卒業。その後、陸上幕僚監部装備部長、第6師団長、陸上自衛隊幹部学校長など歴任。西部方面総監(陸将)で2017年退官。現在は一般社団法人救国シンクタンク研究員、一般社団法人日本安全保障戦略研究所上席研究員。著書は『作戦術思考』(ワニブックス、2023年)、『合憲自衛隊』(同、2025年)など。 |