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はじめに(一部)

 一八三〇年代に実用化された有線電信などにより膨大なインフォメーションが迅速に伝わるようになると、もはや個人レベルでは情報処理が追い付かず、その後の判断も困難になったと考えられます。一八三〇年以降のヨーロッパを例にとると、通信手段だけでなく戦闘のための機動力(鉄道や馬車など利用)も向上し、一人の天才が情報を処理して適切な判断ができるような時間的余裕がなくなってきました。
  その象徴的な戦いが、普仏戦争(一八七〇?七一年)でした。一八〇六年のナポレオン戦争で大敗を喫し、その後、軍改革を継続してきたプロシア軍がフランス軍を破ったのです。その原動力の一つが、モルトケが育成した参謀本部の存在でした。組織力で情報を処理して状況を的確に把握し、適切な作戦計画を立案して指揮官を補佐したのが参謀本部です。
  以来、各国はいっせいに「プロシアを見倣え」と、その参謀本部のシステムを採用し(三五頁参照)、その時期がわが国では明治期と重なりました。江戸期は国内的に長く天下泰平の時代で、しかも鎖国政策を採っており、外国と戦うことなど考えられませんでした。
  しかし、江戸末期、外国からの侵略の恐れが現実的になり、明治後期には日本が大陸に進出することすら検討され、国外に目が向くようになりました。つまり、インフォメーションだけでなく、インテリジェンスが必要になったのです。
  明治維新前後は、「敵のようす」を知る程度でよかったのが、次第に組織的に収集した膨大な情報を分析して活用することが必要となり、一九〇〇年初期の無線通信技術の発達が、それに拍車をかけました。そして、冒頭でも述べたように今やSNSを活用して個人が情報を発信するとともに、膨大なインフォメーションを収集できる時代になったのです。
  用語としての「インテリジェンス」は、第二次世界大戦後にアメリカで明確に区別されるようになったと述べましたが、組織的にインフォメーションを集めて分析してインテリジェンスにするという活動は、わが国においては明治期から始まったと考えられます。本書では、そのような観点から、明治以前を「インテリジェンス前史」と位置づけ、明治以降に本格化したインテリジェンス活動に焦点を当てて考察します。これにより、従来の情報に関する通説に対する疑問を明らかにし、理解を深めていきたいと考えています。

 本書の構成は以下の通りです。<br>
  序章は、インテリジェンス前史<br>
  第1章は、日本陸軍のインテリジェンス機関<br>
  第2章は、明治陸軍のインテリジェンスはどこが優れていたか<br>
  第3章は、陸軍に遅れた海軍インテリジェンス機関<br>
  第4章は、陸海軍の秘密情報活動と防諜<br>
  第5章は、インテリジェンスの成功と失敗<br>
  第6章は、戦後日本のインテリジェンス機関の再建<br>
  第7章は、日本のインテリジェンスの課題と対策<br>
 

目  次

はじめに 1

農耕民族だから「情報に弱い」は正しいか/「情報」は日本人の造語/インフォメーションとインテリジェンス

序章 インテリジェンス前史 19

『日本書紀』に登場する日本初の情報機関/新羅から来たスパイ/情報収集のスペシャリスト「忍者」

第1章 日本陸軍のインテリジェンス機関 28

1、建軍前後の状況 29

海主陸従/軍の行政機関の名称の変遷/陸軍における参謀本部設立まで

2、陸海軍統合の「参謀本部」創設 37

理想的な組織に近づいた参謀本部/先駆的な陸海軍の統合機関の設立と破綻

3、作戦と情報部門の統合と独立 44

日清戦争の戦訓に基づく参謀本部の改編/日露戦争に備えた参謀本部の改編/情報業務における日露戦争の戦訓/参謀本部の改編により情報部再び独立

4、参謀本部創設の立役者 51

参謀本部創設の父・川上操六/軍政の桂太郎/モルトケの思想を日本に植え付けたメッケル少佐

【第1章のポイント】57

第2章 明治陸軍のインテリジェンスはどこが優れていたか 60

1、日清・日露戦争を勝利に導いたインテリジェンス 60

日本インテリジェンスの父「川上操六」/「天下の逸材」荒尾精/「シベリア単騎横断」福島安正/一人で「陸軍一〇個師団に相当」の明石元二郎/僧侶「清水松月」となり活動した花田仲之助/現地に溶け込み活動した石光真清/報国六烈士

2、明治期インテリジェンスの先見的な取り組み 80

情報伝達手段(海底ケーブル)の充実/日英同盟と日英軍事協商による情報の入手/ロシア側の日本軽視の風潮/ロシア側の情報収集の失敗

3、陸軍のインテリジェンスの問題点 84

日露戦争開戦時から解読されていた日本軍暗号/プロイセン参謀本部の問題点を継承した日本陸軍

4、主要国の趨勢から取り残された日本のインテリジェンス 89

第一次世界大戦への参戦とシベリア出兵の影響/大戦から学べなかったインテリジェンスの役割/陸海軍の英語教育への取り組み不十分/日清・日露戦争の成功体験が仇に

【第2章のポイント】94

第3章 陸軍に遅れた海軍インテリジェンス機関 99

1、海軍情報組織の設立は、なぜ陸軍より遅れたか? 99

英国式を採用した海軍/建軍から日清戦争までの海軍情報機関/日露戦争前後の海軍のインテリジェンス機関

2、日露戦争時の海軍情報活動体制 109

インテリジェンス・サイクル/情報収集から配布まで/欧州における在外公館の状況/武官による情報収集/海軍駐在員等の派遣による情報収集/極東以外のロシア海軍の情報収集/第3班の部屋の配置/情報の配布
3、バルチック艦隊の動向を探る 118

国民総動員で情報収集/必要な情報(情報収集項目)/情報収集地域・地点と収集源(手段)/バルチック艦隊の実際の動向/実際に収集された情報/情報収集成果(プロダクト)/情報活動の教訓

【第3章のポイント】137

第4章 陸海軍の秘密情報活動と防諜 140

1、通信情報収集能力の充実 141

陸軍の特殊情報/海軍の通信諜報

2、人的情報収集能力の向上 149

日本の在外大公使館付武官制度/在外大公使館付武官の管轄や派遣先/在外大公使館付武官の人選/在外大公使館付武官の軍における影響力/陸軍の特務機関/(海軍)軍令部特務部

3、カウンター・インテリジェンス 164

陸軍のカウンター・インテリジェンス(防諜)/海軍のカウンター・インテリジェンス

【第4章のポイント】168

第5章 インテリジェンスの成功と失敗 173

1、真珠湾攻撃(成功事例1)173

情報上の成功要因/米国側の情報上の失敗

2、フィリピンの戦い(成功事例2)177

情報上の成功要因

3、マレー沖海戦(成功事例3)180

マレー沖海戦の成功要因/英国側の情報上の失敗

4、潜水艦暗号漏洩事件(失敗事例1)182

オーストラリア軍による暗号書の回収

5、ミッドウェー海戦(失敗事例2)184

情報上の失敗要因

6、海軍甲事件(失敗事例3)186

情報上の失敗要因

7、海軍乙事件(失敗事例4)189
情報上の失敗要因

8、陸海軍インテリジェンスの問題点 192

組織上の問題点/情報の軽視/情報の保全/不十分な情報共有/米軍による日本軍の情報部の評価

9、軍以外のインテリジェンス機関 206

外務省のインテリジェンス機関/内閣情報部と情報局/日本の中央インテリジェンス機関

【第5章のポイント】213

第6章 戦後日本のインテリジェンス機関の再建 218

1、自衛隊のインテリジェンス機関 220

陸上幕僚監部第2部/防衛省情報本部/情報本部の編制/情報本部の任務と業務

2、外務省のインテリジェンス機関 226

国際情報統括官組織の設立/国際情報統括官組織の任務と業務

3、公安関連のインテリジェンス機関 229

公安警察(警察庁警備局)/公安警察(警察庁警備局)の編制と業務/サイバー警察局の編制・業務/公安
調査庁/公安調査庁の編制/公安調査庁の任務と業務

4、中央情報機構 236

内閣情報調査室/内閣情報調査室の編制/内閣情報調査室の任務と業務

5、インテリジェンス・コミュニティーの構築 242

ICの二つの型/主要な改革の流れ/官邸をスタートにするインテリジェンスサイクル/日本版NSCと
NSSの創設/国家安全保障会議(NSC)の構成員/国家安全保障局(NSS)の組織と業務

【第6章のポイント】253

第7章 日本のインテリジェンスの課題と対策 259

インテリジェンス機関の戦前と戦後の比較/秘密工作活動とカウンターインテリジェンス/戦前戦後を通じて不十分だった情報の共有と集約・統合/情報軽視による人材不足・情報教育不足/情報共有を阻害する「組織文化」/情報共有を阻む「行き過ぎた秘密主義」/情報共有を妨げる官僚制/情報共有のためには/戦前と比較して向上している機能/主要国にはあるのにわが国にはないか不十分な組織・機能/不十分な人的情報活動/公開情報(オシント)の収集機能の不足と情報共有意識の不在/インテリジェンス機関における不十分なサイバー戦能力/インテリジェンス機関監視機能の不在/インテリジェンス共通教育/情報組織の規模・予算から見て不十分

【第7章のポイント】284

おわりに 287
主な参考文献 293

コラム1 ペンタゴンの始まり 36
コラム2 陸海の考え方の違いに関する体験談 42
コラム3 石光真清旧居(石光真清記念館) 77
コラム4 陸上自衛隊における指示棒の使い方 198
コラム5 組織の縦割り「ストーブパイプ」248
コラム6 組織文化を変えるのは容易ではない 269

樋口敬祐(ひぐち・けいすけ)<br>
1956年長崎県生まれ。拓殖大学大学院非常勤講師。元防衛省情報本部分析部主任分析官。<br>
防衛大学校卒業後、1979年に陸上自衛隊入隊。95年統合幕僚会議事務局(第2幕僚室)勤務以降、情報関係職に従事。陸上自衛隊調査学校情報教官、防衛省情報本部分析部分析官などとして勤務。<br>
2011年に再任用となり主任分析官兼分析教官を務める。その間に拓殖大学博士前期課程修了。修士(安全保障)。拓殖大学大学院博士後期課程修了。博士(安全保障)。2020年定年退官(1等陸佐)。<br>
著書に『インテリジェンス用語事典(共著)』『ウクライナとロシアは情報戦をどう戦っているか』(並木書房)などがある。