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 わたしは、近未来に、古くてあたらしい《自転車》や《無動力のスクーター》が、何万人もの命を救うことになるだろうと思っています。
  この1冊を書いたのは、その未来を皆さんに伝えたいためです。

 しかし、いきなり至高のテーマの説明から始めても、誰もついて来てはくれぬと、経験から、わかっています。
  そこで、大多数の方が知っている「はず」である、先の大戦のお話から、いたしましょう。

 サドルも、チェーンも、ペダルも、ギヤも、ゴムチューブも無い「押して歩く」だけの自転車──それは今なら「手押しスクーター」とも呼ばれましょう──を調えるという着想が、もし戦前のわが国の指導者層に持てていたならば、先の大戦で、わが国は、敗けなかったかもしれません。

 ……えっ、何ですって?

 左様。もし今から2年ほども前でしたなら、「お前は60歳を過ぎて小学生みたいにくだらぬことを空想してるなよ」と、こんな話は、みずから一蹴していたでしょう。
  ところが、この可能性を頭の片隅に置いて史実の数値を眺めているうち、「それは妄説ではない」と思われてきた。じつは、その文献確認で、昨年(2023年)は、すっかり時間を費やしました。おかげで老眼が一層悪化したことは苦にしていません。

 外見からはそれほどとはわからない技術の飛躍が、自転車工業にはたびたび、あったようですね。なかんずく、市販品のタイヤやチューブのゴム関係が、昭和24年(1949年)頃を境に画期的に改良されている。どうも、その普及は世界的であったようです。

 本文の第5章でも再説をいたしますが、そんなベーシックな機能改善があったので、1954年、制空権をまったく有しないベトミン・ゲリラが、《万単位の数の市販自転車のフレームに200sの軍需品を吊るしたものを輜重兵が夜間に押して歩き、荷物をリレー式に前送させる》というユニークな《補給トレイン》を実現することができて、「ディエンビエンフー要塞」に立て籠もったフランス植民地軍の大部隊を火力で圧倒して降伏に追い込み、旧宗主をインドシナから追い出す端緒が作られたと考えられるのです。

 しからば、同じようにジャングル内の細道を縫う、人力による長距補給計画を、1949年以前の物資や技術のみを用いた自転車──もしくはその簡易改造品──を使って、1942〜44年の日本軍が、東部ニューギニアやガダルカナル島やビルマの最前線で実施することは、不可能だったでしょうか?

 この本は、「関係者が機転が利く者だったならばそれも可能であった」と論証します。

 第1章ではまず、1944年の「インパール作戦」から検討しましょう。
  よくこれは、近代日本の戦争指導上、最悪の失敗の代表としてあげつらわれます。

 じっさい、発案人にして「第15軍」司令官たる牟田口廉也中将の頭の中は粗雑のそしりをまぬがれません。が、その事実とは独立に、当時でも「押して歩く」金属製自転車を、上海、仏印、タイ、ビルマ方面で数千台から数万台くらい、かきあつめることはできました。
  基本、「乗用」は考えないので、車輪は金属リムがしっかりしていてくれたら、そこに麻縄なり竹ひごなりを巻きつけて、空気タイヤ以前の「ソリッドゴム」の代用緩衝材とし、またもしスポークが超過荷重で折れ曲がってしまいそうだったならば、野山砲の砲車の車輪よろしく、木材で補強すればよかった。チェーンやペダルどころか、クランクやギヤも欠損していたって、構いはしなかったのです。

 江戸時代に来日した医師のシーボルトが1826年に書き留めています。当時の日本国内で牛に曳かせていた荷車のホイールには鉄環は巻かれておらず、その接地外縁の木部の磨耗を防ぐために、割り竹を8の字状に編んで巻きつけてあった、と。ビルマには竹が自生していました。パンクしがちな当時のゴムチューブの空気タイヤなど、さいしょから除去してしまって、鉄リムにゴム片を貼り付けるか、何かその用途に適した植物繊維を巻きつけて保護するだけで、長い距離の「押し歩き」に耐えてくれたのではないかと思います。

 それに加えて、現地ビルマにおいて、車輪までが切り抜きのソリッド材木の「全木製スクーター」を各部隊で自作し、そこに200sの物資(食糧や弾薬)を積載して人力で山道を押して行くことすら、技術的に可能だったと考えられるのです。
  後者の、目の当たりの証拠品が、コンゴ民主共和国の東部で活躍中です。そこでは現在でも、ストリートの木工職人たちが、ブッシュナイフ1本を道具として、ありふれた材木と廃タイヤの切れ端から、わずか2日か3日で、全長2mの「CHUKUDU」(これについては第1章のおしまいのページをご覧ください)をハンドメイドしています。
  頑丈なタイプですと、ユーザーが450sもの荷物を毎日運んでも、2、3年間は耐用するという。1970年代いらい工夫され洗練されている、「無動力の輸送機械」の優等生なのです。

 この木製スクーターのスペックを、いくぶん割り引いて──たとえば載貨量を100sと抑制し──条件代入してみたとしても、当時の日本軍の目的であったインパール市の占領は、たぶん、一時的にはできてしまったでしょう。というのはコメ80sを1人の人間が背負って長時間歩行することは不可能ですが、積載力100sで自重数十sの自転車もしくはスクーターを押しながら延々と行軍を持続することはできるからです。
  コメ80sで1人の兵隊の4ヵ月分、または2人の兵隊の2ヵ月分のカロリーになりました。その自転車1台を2人がかりで押し引きすれば、険難な急坂も通過できたのです。

 自転車のような、前後にタンデムに2輪のついた荷車の特長は、斜面を通行するとき、押し手がロール傾斜をキャンセルすることで、横倒しを免れることです。急斜面の直登であろうがトラバース(横行)であろうが、車体はうしろから見たときに、左右に大きく傾きません。それは、人間や動物の歩き様に、近い。
  キツネが冬の湖氷の上を歩いた足跡を見たことのある方は、その足跡がまるで1条の点線としか見えないのが、不思議で面白いことでしょう。前脚が安全に踏むことのできた線上を、後脚も的確になぞって進む。自転車にも、似たことができるのです。もし前輪が、穴や岩木の段差衝撃にわずらわされずに済んだならば、後輪もわずらわされません。
  19世紀末の自転車デザインの模索期に、いくつかの軍隊で、「3〜4輪自転車」を重機関銃の運搬に使えぬかどうか、試しています。そして学習しました。レール上を走らせる専用の自転車(ウォーサイクルズ等と呼ばれました)でないかぎり、3〜4輪の自転車は勝手が悪くて非実用的だ──と。前後左右の車輪のすべてが、地面の凹凸を避けるべく、進行線をハンドルで微調節し続けることなど、誰にもできやしなかったからです。
  自転車が近代人類の大発明であるゆえんは、「次々にあらわれる地面障害をやすやすと避けて通れる前後タンデム2輪で、それなのに横転はしない」という、思いがけずも野生動物に類した「地形即応力」にあったのではないかと思っています。

 さて、歴史の「if」として、この自転車を「手押し荷車」として活用する着眼により、日本軍がなんとかインパールやその北方のコヒマまで占領できたとしましょう。やはりその直後に、連合軍から大逆襲を喰らった可能性は大です。
  その場合でも、日本軍の全部隊が給養不良のためほぼ同時に一斉に活動力を喪ってしまうというカタストロフィックな行軍計画の破綻は起きません。自転車と、それを押す兵隊の体力が残っている以上、退却路がジャングル内の1本道しかなくとも、「独歩不能な重患者」たちを、ただの1人もジャングル内に置き去りにすることはなかったでしょう。
  自転車は、疲労した兵隊にとっては「寄りかかれる杖」となり、まったく歩けない重傷者に対しては、ストレッチャーの機能を提供できました。患者を、モンスーン豪雨で水浸しの地面から持ち上げて、必要ならば2人分の2週間分の食料の他に装具もいっしょに載せ、それをたった1名の健常兵だけで、押して行けたでしょう。
  ベトナム人は、ベトナム戦争中、2台の自転車を前後に連ね、その2台のあいだに「担架」をかけわたすという方法で、軽便な「患者輸送車」をこしらえています(Jim Fitzpatrick著『The Bicycle in Wartime』の185ページに、その一例の写真があります)。
  いよいよとなれば、1台の自転車の後部荷台に丸太棒の前端だけを引っ掛けて、棒の尾端は敢えて引き摺るように接地させ、その丸太に患者をぐるぐると縛りつけた状態で、その自転車を押して歩いても、なんとかできたはずです。
  もちろん木製スクーター「チュクードゥー」〔第1章の最後で解説しています〕のメインビーム上にも、1名の患者を後ろ向きに座らせておくことは可能で、それを1人の「押し手」により、2人分の食料とともにジャングル内を延々と後退させることは、難しくはなかったのではないでしょうか。

 さすがにしかし、そこから先の戦争の行く末となりますれば、相手方も百般の策を講じたはずですので、見通しは曇ります。
  まさか自転車の兵站力だけで、ロンドンやワシントンまでも攻めていくことはできません。米国のマンハッタン計画(原爆開発)を阻止するのも無理でしょう。
  それでも、間違いなくビルマでもフィリピンでも、日本軍は戦史よりもずっと少ない死傷者で、頑強この上なく抵抗し得たでしょう。そしてその「新現実」が、連合国側の戦争指導部をして、ドイツ占領後の長期戦争を嫌忌させ、早期の対日媾和を考えさせたかもしれません。
  その間の、日本本土内の戦時経済活動も、史実よりは遥かに高速に回転し得たでしょう。自動貨車(トラック)と石油燃料の不足を、効率的に、プッシュバイク(手押しの荷車スクーター/自転車)が、補ったと考えられるのです。この話は、本書の最終章、現代のわが国の重要課題とも関係してまいります。

 第2章では、1904〜05年の日露戦争ではどうして日本軍は自転車を使わなかったのかを、ごく簡単に考察します。
  そもそも軍隊が自転車を本格的に戦争に使用したのは、1899〜1902年の「第2次ボーア戦争」。
  とうじ欧州の時評家は、《騎兵の時代は終わり、自転車歩兵が現代のドラグーン(乗馬機動歩兵)になる》と予感したものでした。明治期の日本陸軍はニア・リアルタイムで欧米の戦争報道を熱心に全訳していました。この最新アイテムの華々しい登場を知らなかったはずがありません。なぜ、それを対露戦では役立てなかったのでしょうか?

 もし「荷車」としての自転車に、日露戦争のずっと前から価値をみいだせた慧眼の戦略家と行政官がいたならば、対露戦争の戦場を「南満洲」に限定する必要はありませんでした。日本陸軍は、朝鮮国境から北上してウラジオストック軍港を攻略できた可能性があります。長春から遼東半島の南端まで延びていた「東清鉄道南満洲支線」も、奉天以北、たとえば四平で遮断できた可能性があります。日露戦争の展開は、土台から異なったものになったでしょう。
  なお、日清戦争と自転車の関係については、次の第3章で説明しています。

 第3章では、昭和12年以降の日本政府が、鉄やゴムを消費する自転車製造業を基本的に兵器増産のさまたげだとみなして制限してしまう不明と、それにもかかわらず、対英米戦争の初盤、1941年12月から翌年1月にかけて、マレー半島を南下してシンガポールを電撃的に攻略するのに民生品の自転車を役立てようと考えた、エリート参謀・辻政信大佐の思惑が大当たりしている理由を考究したいと思います。

 この章ではまた、18世紀の自転車の始祖とされる「ドライジーネ」から1930年代までの自転車「進化」史も、簡略に承知しておこうと思います。

 第4章では、開戦劈頭マレー半島での大成功があったにもかかわらず、1942年に東部ニューギニアの脊梁山脈を歩いて越えようとした「ポートモレスビー攻略作戦」と、同時期に並行して展開した「ガダルカナル島攻防戦」に自転車を使おうという発想がまったく抱かれなかった理由について、いささか想像します。

 わたくしの見ますところ、ガ島でもオーエンスタンレー山地でも、「押して歩く」自転車を、動物輜重の代用にするという発想さえあれば、経過はまるで違ったものになり、終始、「餓死者」「残置患者」はゼロにできたでしょう。
  しかし、マレー半島で実行されている奇襲開戦計画とは異なって、ソロモン方面の作戦は、対米英蘭開戦後、かなり経ってから、泥縄計画のようにして急進展したものです。空母戦力に期待していた日本海軍の根本計画が、ミッドウェー海戦でとつぜんに破綻してしまい、爾後は、空母ではなく、島嶼の航空基地に頼るしかなくなったという《事情の急変》が、陸軍部隊の仕事も急かしました。そのため、何ヵ月も前からまとまった数の自転車を揃えて前線に送り込むべく準備をなし得たような「軍司令部組織」は、そこには初めから存在しなかったのです。もちろんその前に、自転車の輜重的運用をふだんから研究していたような幕僚も団隊長も──辻政信も含めて──誰もいませんでした。辻グループは、戦間期イタリアの自転車利用戦術の翻訳以上の発明をしたわけではなかったのでしょう。

 わたくしは、机上であれこれ空想をしているだけでは科学的ではないと思い、協力者を募り、タイヤのゴムとチューブを意図的に除去してしまった現代の自転車に80sの砂袋を縛り付けて、里山の坂を押して登ってもらうという「実験」を、2024年1月〜2月に撮影してもらいました。その動画も、下記のQRコードから、ネットのアップロード先へリンクしておりますので、どなた様もご覧になってください。

 第2次大戦後のベトナム人たちの偉大な創見である「荷車化した自転車」を、先の大戦中の自転車で日本軍が実行した場合の実用性について、読者の皆様が、幾分なりとも想像しやすくなりましたなら、望外のよろこびです。

 第5章では、その1950年代〜60年代の北ベトナム軍の「プッシュバイク」の成功因を探ろうと思います。
  今から十年以上も前でしたなら、ベトナムを旅行した外国人たちは、現地で自転車に途方もない大荷物を積載して押して歩いている人を、街なかでも見かけることがあったようです。が、2024年1月に南ベトナムに旅行した人の話ですと、もう自転車でそんな苦労をして物を運んでいるような人は、いそうにもない感じだったそうです。ベトナムの経済発展は順調で、それにともなうモータリゼーションが進んでいるのでしょう。
  ただし、私の想像では、ベトナム軍の内部では、今でも「プッシュバイク」の装備と訓練と研究が、あるはずです。彼らは、それを外部にはことさら、宣伝しないのです。

 第6章では、ドイツ軍、イタリア軍、スイス軍の過去の自転車活用について短く瞥見し、そのうえで、近未来の日本国が遭遇する可能性のある国家非常事態と自転車の関係について、多少展望し、拙著をしめくくりたいと思います。

 解決至難な社会の少子高齢化と取り組まなくてはならぬわが自衛隊も、早く自転車の正式導入を考えたほうがいいに決まっています。この本の全篇が、その問題提起となっていることを読者の皆様が察してくださいましたなら、うれしいです。

目 次

序 1

第1章 インパール作戦──「置き去り」にしたかどうかで決まった「餓死者数」23

 インドとビルマの間は、広い不毛の密林山脈が「自然国境」を成していた 23
  陸上から補給を受けない長駆侵攻の手本を牟田口に示した「チンディッツ」部隊とは? 26
  インパール作戦の思いつき 37
  3つの師団が糧食を運搬しようとした方法 40
  さまざまな困難 46
  遅延発生後の、崩壊のタイムライン 49
  患者を後ろへ退げられないとき、食糧も前へ行かない 53
  歩兵は命令すれば歩いてくれるが、物資は命令を出しても歩いてくれない 60
  遺棄を防ぐ道具の要件 《1人の健全兵で、1人の重患者と、装備・糧食2人分も運べること 62
  プッシュバイクで、師団の馬や自動車を完全に代置できたか? 66
  秣も燃料も、「世話係」も獣医も不要だった自転車/スクーター 69
  コンゴ人の大発明──材木と山刀だけで自作できる陸上運搬機「Chukudu」72

第2章 日露戦争は「自転車にとってのタイミング」が悪かった 80

 そもそも自転車はいつ「兵器化」されたのか? 80
「始祖鳥」としてのドライジーネ 81
  第2次ボーア戦争よりも前の自転車は、依然として《高額なオモチャ》だった 84
「安全型」自転車がデビュー 87
  南アフリカの地政学 89
  ダニエル・テロンの自転車コマンドー戦術 90
  19世紀軍隊の「騎兵」の地位を20世紀に継承したのは何か? 96
  対露戦争に日本陸軍は自転車を持ち出す計画はあったか? 100
  日露戦争前夜の自転車世相 102
「自動車」が「自転車」のライバルとして登場したタイミングの悪さ 105

 

第3章 なぜ「マレー進攻作戦」だけが「銀輪」活用の成功例となってしまったのか? 108

 日本の自転車工業と幕末人力車の縁 108
  西南戦争で田原坂が攻防の焦点になったわけ 111
  日清戦争以前の国内自転車メーカー 114
  日本で最初に「セーフティー型」自転車を製作したのは……? 117
  日清戦争と自転車 119
  第1次世界大戦前の日本国内の自転車事情 127
  日露戦争後に、宮田が主導した自転車のマスプロ生産が本格化した 130
  第1次世界大戦(1914〜18年)と自転車の海外市場 131
「統制官僚」たちによる《計画経済》──対英米戦争前夜の自転車産業 135
  マレー電撃戦の前夜 140
  開戦劈頭の南方進攻作戦と自転車 141
  生ゴムの自転車チューブは頻繁にパンクしたが、大きな問題にならなかった 145
「銀輪部隊」のディテール──岩畔豪雄による証言 148
『戦史叢書』が教えてくれる知恵 152
  米政府も自転車関連の物資は統制していた 156
  国内自転車メーカーの南方占領地サービス 157
  対米戦争後半の内地自転車事情 158
  終戦直後の自転車事情 161

第4章 「東部ニューギニア」と「ガダルカナル」の悪戦を、自転車は変えられたか? 164

 なぜオーエンスタンレー山脈を歩いて越えようとしたか? 164
  東部ニューギニアの道無き山脈に「プッシュバイク」は通用したか? 168
  なぜガダルカナル島は重視されたか? 177
  一木支隊のガ島上陸と攻撃失敗 180
  川口支隊のガ島上陸と攻撃失敗 186
「第2師団」のガ島上陸と攻撃失敗 191
  非効率的だった「ドラム罐」補給 199
  補給点に物資が堆積していても、前線では飢えてしまう仕組み 203
  総撤収 205
  そこに自転車を持ち込んでいたなら、何が改善されたか? 207

第5章 ベトナム人だけが大成功できた理由は? 210

 ディエンビエンフーの大勝利 210
  荷物運搬自転車のディテール 213
「ブチル・ゴム」チューブと 「インドシナの独立」は、関係がある? 217
  ブチル・ゴムは第2次大戦後に自転車用チューブの定番素材になった 221
  インドシナの仏領植民地に多かったプジョー製の自転車 223
  第2次インドシナ戦争=いわゆる「ベトナム戦争」227
  ベトコンの強さの秘密を見抜いた大物ジャーナリスト 231
  自転車の全盛時代を終らせたのは、米軍ではなくホンダのカブであった 234

第6章 自転車は「エネルギーと食糧の地政学」をこれからも左右する 240

 欧州の道路は、自転車にも自動車にも好都合だった 240
  ヒトラーは自転車を推せなかった 242
  鉄道と自転車には、相通ずるところがあり、それは中世の「駱駝」と比べられる 247
「自動車化」は、軍隊を半「奴隷化」した 251
  イタリア軍の先進的な考え方 256
  スイス陸軍の実践 260
  手押しスクーターは、非常時の食料・肥料・薪炭の配分に大活躍する 264

 

[コラム]
水牛は役に立たなかったのか? 48
実験リポート ゴム無し車輪のプッシュバイクで本当に使い物になったか? 237
自転車歩兵部隊を乗馬歩兵部隊と比べた長所と短所は何か? 254

「あとがき」にかえて 268

学ぶにしくはなし 268
自転車は、乗るばかりが能ではない 270
少子高齢化社会に向き合いつつ、周辺国からの侵略に強靭に対処するには 272

兵頭 二十八(ひょうどう にそはち)
1960年長野市生まれ。陸上自衛隊北部方面隊、月刊『戦車マガジン』編集部などを経て、作家・フリーライターに。既著に『米中「AI」大戦』(並木書房)、『有坂銃』(光人社FN文庫)など多数。現在は函館市に住む。