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はじめに(一部)

 今日、「心理戦」ではなく「認知戦」と呼称するのはなぜだろうか? それは目覚ましいICT技術の革新によって、人間の心理や認知へ働きかける手法が多様化し、影響度の質が変化し、量が増大しているからである。
  たとえば、ICT環境が未熟な時代の心理戦では、主にメディアを使ったプロパガンダを通じて広範な人々の心を誘導しようとした。しかし、現代ではSNSなどソーシャルメディアの発展により、個人の思考や信念などを把握し、「カスタマイズされた情報」を特定の対象に意図的に配信し、その認知や心理を誘導することが可能になった。ここで心理戦と認知戦の一つの境界が存在することになったのである。
  今後、高度な科学技術、とくにAIがイノベーションを牽引し、将来の戦争の特性も変容していくことは間違いない。中国軍の専門家はすでに「智能化戦争」、「制脳戦(人間の脳をコントロールする戦い)」という言葉を提唱している。遠くない未来では、局部・局所において人間の心理・認知の領域を超えたAI戦争が出現することになるだろう。このため、歴史と現代の状況に加えて技術革新をもとにした創造的な視点が不可欠である。(中略)
  折しも、本書を書き終えた時にイスラム組織ハマスがイスラエルに大規模な奇襲攻撃を行なった。世界最高と評価されるイスラエル情報機関はハマスの侵攻を予測できなかった。これは、一九七三年の第四次中東戦争以来のインテリジェンスの失敗であるとされている。
  失敗の要因はいくつか列挙されるが、心理戦および認知戦の観点から言えば、ハマスが「我々はテロ組織ではなく、民意で選ばれた正当な勢力である」との巧みなプロパガンダを行ない、大規模な作戦を準備する一方、「イスラエルとの対立を望まない」という印象操作を行なったとされる。このことがイスラエルを慢心させ、奇襲を成立させた要因であるとも指摘できよう。
  また、中東諸国のみならず、わが国でもテロ攻撃を行なった側のハマスに対する批判が高まらず、自衛権を持つイスラエルに対し抑制的な反応を促す世論の風潮もみられる。これは、ウクライナ戦争とは様相を異にする現象であるが、その根底にはメディアや中東専門家の影響を受けた「パレスチナ善、イスラエル悪」あるいは「パレスチナ弱者、イスラエル強者」という単純化された世論が背景にあるのではないだろうか。
 

 

はじめに(上田篤盛)1

第1章 心理戦とその運用 23

1、心理戦の概要 23
心理戦の定義/心理戦は認知戦である/心理戦の五つの特徴
2、わが国の秘密戦 29
3、心理戦の運用 31
心理戦の基本はプロパガンダである/プロパガンダの種類と運用/心理戦に不可欠な暴力的手段

第2章 心理戦の歴史的教訓 41

1、古代の心理戦 41
ギデオンのラッパと松明──示威による心理戦/テミストクレスのブラックプロパガンダ/クセルクセス王の失敗/アレクサンダー大王による宣撫/韓信による「四面楚歌」/「三国志」の戦争プロパガンダ
2、中世から近世の心理戦 52
チンギスハンの心理戦/米国独立戦争と近代心理戦の始まり
3、第一次世界大戦の心理戦 56
英国によるブラックプロパガンダ/米国の戦意高揚策(善悪二元論)
4、第二次世界大戦の心理戦 60
ドイツの心理戦(国内プロパガンダと外交心理戦)/ソ連の心理戦(共産主義の輸出)/英国の心理戦(組織整備と欺瞞工作)/米国の心理戦(プロパガンダ組織の整備)
まとめ 72

第3章 日本軍の心理戦 77

1、諸外国の対日心理戦 78
国民党の巧みなプロパガンダ/中国共産党の謀略心理戦/英国の対米プロパガンダ/米国による対日心理戦
2、日本の対敵宣伝と対占領地宣伝 88
宣伝組織の整備/陸軍、宣伝謀略課を設立/対米謀略宣伝の実施
3、わが国の心理戦、宣伝の評価 95
大本営発表と現実の乖離/わが国の宣伝の問題点
まとめ 102

第4章 冷戦初期の米ソの心理戦 108

1、冷戦初期における米ソの心理戦 109
ソ連に翻弄されたヤルタ会談/スターリンの思惑と謀略/ソ連心理戦の戦略・戦術/北朝鮮軍による「心の侵蝕」/米国における赤狩り$風/米国の心理戦組織とプロパガンダ
2、キューバ危機での外交心理戦 121
キューバ危機の勃発/外交心理戦を支えた意思決定機構/テレビ報道下のメディア戦
まとめ 127

第5章 米国のメディア戦と報道の統制 134

1、ベトナム戦争に敗北した米国 134
ベトナム戦争の経緯/解放民族戦線の口コミ説得術/米国はなぜ敗北したのか?/報道の統制の失敗
2、戦争の大義と報道統制の問題 144
湾岸戦争の勃発とその特徴/メディア戦による戦争大義の獲得/湾岸戦争における報道の統制/コソボ戦争以降の報道統制
まとめ 154

第6章 米国の情報戦/情報作戦 157

1、米国のRMAと情報戦/情報作戦 157
RMAとは何か/情報戦/情報作戦という概念
2、米国国家戦略の転換と大国間競争の復活 162
米国の国家戦略の転換/自由・民主主義対権威主義/DXをめぐる米中対立
3、米国の進化する情報戦 168
ソーシャルメディアを活用した民主化工作/ソーシャルメディアを使った選挙工作/米国もデジタル影響工作を採用か
4、米軍のマルチチドメイン作戦とサイバー戦略 174
米軍の軍事戦略/サイバー戦能力の強化/サイバーセキュリティの強化/宇宙戦への取り組み
まとめ 182

第7章 中国の情報戦と新領域での戦い 189

1、中国の情報戦への取り組み 189
情報化局地戦への取り組み/ 「超限戦」思想の登場/三戦の総合的運用/サイバー戦への取り組み
2、中国の国家戦略と習近平の軍改革 201
中国の長期目標/対米挑戦を意識した「一帯一路」構想/軍の組織大改革/ 「軍民融合」戦略
3、中国の新たな領域での戦い 206
情報化戦争の趨勢/サイバー・情報戦の趨勢/中国が認識する「認知領域」/中国軍が目指す智能化戦争
まとめ 214

第8章 ロシアによる情報戦とハイブリッド戦争 221

1、「カラー革命」を仕掛けたのは米国か? 221
カラー革命の勃発/カラー革命の震源地は地政学上の要衝/ジョージ・ソロスの関与/米情報機関の関与
2、プーチン大統領による巻き返し 227
国内権力の掌握と対中関係の強化/近隣国への民主化ドミノを阻止/親露政権への転覆を画策?
3、ロシアの伝統的な情報戦 234
ロシア情報機関の再編/偽情報による影響工作/暗殺はロシアの常套手段/情報の統制・管理の強化
4、進化するロシアのハイブリッド戦争 243
ハイブリッド戦争とは何か?/エストニア、グルジアに対するサイバー戦/ウクライナ危機(クリミア併合)/二〇一六年の米大統領選挙への介入
まとめ 254

第9章 ウクライナ戦争とサイバー・情報戦 261

1、ウクライナ戦争の概要 261
2、サイバー・情報戦の全般的特性 264
3、サイバー・情報戦の様相 267
(1)ロシアによるサイバー・情報戦 267
国内の情報統制・管理/海外に向けた情報操作と世論分断工作/軍事作戦と一体化したサイバー攻撃
(2)ウクライナによるサイバー・情報戦 273
国家安全保障戦略で対ロシア路線を明確に規定/サイバーセキュリティの強化/国際世論を味方につけたゼレンスキー演説
(3)米国によるサイバー・情報戦 279
ウクライナに対する情報支援/積極的な衛星画像などの情報開示/米国が主導したメディア戦とその狙い
4、サイバー・情報戦の教訓 283
曖昧化するサイバー攻撃の主体/攻撃目標は物から人へシフト(5リングモデル分析)/重要性を増したサイバー・レジリエンス/侮れないロシアの偽情報流布/綻びがみられる「善悪二元論」
5、増大する地政学リスク 296
中露連携で高まる安全保障リスク/重要性を増す経済安全保障/懸念される台湾有事

第10章 新時代の認知戦と未来予測 304

1、欧米の「認知戦」研究 305
欧米による認知戦の研究/認知戦の特性/認知戦の二つの目標/認知戦は自由・民主主義国家にとって脅威
2、AI化とAI戦争の到来 314
AI化への取り組み/AI覇権をめぐる米中の確執/AI戦争の到来
3、二〇三〇年の認知戦シミュレーション 318
(1)社会の不安定化と影響力工作が拡大 318
AI技術がもたらすデジタル社会の混迷/偽情報を拡散する生成AI/インテリジェンス・リテラシーを失う国民/信頼を喪失するマスメディア/日本社会の分断化が進展/優位に立つ権威主義国家
(2)サイバー・認知戦の勃発の可能性大 331
軍事におけるAI技術の趨勢/「智能化戦争」に余念がない中国
(3)台湾有事が勃発する 335
二〇三〇年の東アジア情勢は依然として不安定/習近平が台湾軍事侵攻を決意/認知戦・AI戦争に脆弱な日本/リベラル思想が強まる南西方面/サイバー・認知戦が勃発

終章 わが国および企業のとるべき対策 348

1、「安保三文書」と今後の課題 349
領域横断作戦能力の強化を明記/経済安全保障を新たに明記/サイバー安全保障の強化を明記/認知領域を含む情報戦への対応能力強化を明記
2、わが国および企業への提言 356
(1)認知戦の研究および対応策 356
中国の認知戦への対応を強化する/国家レベルの発信力を強化する/インテリジェンス・リテラシーを強化する
(2)サイバーセキュリティの強化 368
能動的サイバー防御の実践力を高める/官民間の情報共有を促進する/AI技術をめぐる課題を克服する

解題 認知戦─日本にも迫り来る脅威 381
                 廣瀬 陽子(慶應義塾大学総合政策学部教授)

おわりに(佐藤雅俊)390
参考文献 396

佐藤雅俊(さとう・まさとし)
株式会社ラック・ナショナルセキュリティ研究所長。CISA(公認情報システム監査人)。1984年防衛大学校卒。航空自衛隊第3高射隊長、第23警戒管制群司令、システム管理群司令、2014年に新編された自衛隊指揮通信システム隊サイバー防衛隊長(初代)を経て2017年に退官。同年株式会社ラック入社、ナショナルセキュリティに関する調査・研究に従事し、国家が主体となるサイバー攻撃等について研究成果をもとに解説。ナショナルセキュリティに関する意識啓発の講演多数。

上田篤盛(うえだ・あつもり)
株式会社ラック・ナショナルセキュリティ研究所シニアコンサルタント。1960年広島県生まれ。84年防衛大学校卒。87年陸上自衛隊調査学校の語学課程に入校以降、情報関係職種に従事。防衛省情報分析官および陸上自衛隊情報教官などとして勤務。2015年定年退官。著書に『戦略的インテリジェンス入門』『中国が仕掛けるインテリジェンス戦争』『武器になる情報分析力』『武器になる状況判断力』『情報分析官が見た陸軍中野学校』(並木書房)、『未来予測入門』(講談社)、『超一流諜報員の頭の回転が早くなるダークスキル』(ワニブックス)他。