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 はじめに(一部)
  冷戦を記憶している世代にとって、中距離核戦力(INF:Intermediate-Range Nuclear Forces)条約は特別の意味を持つ。当時の世界における最大の恐怖は、膨大な数の核弾頭を突きつけ合っていた米ソ間で全面核戦争が勃発し、人類が絶滅してしまうことであった。特に1980年代は、米ソの中距離核ミサイルの配備に加え、ヨーロッパではNATO軍が核戦争を想定して行なった演習「エイブル・アーチャー」を実施したり、アジアではソ連による大韓航空007便撃墜事件が発生するなど(いずれも1983年)、軍事的緊張が極度に高まった。
  一般社会でも、アメリカでは核戦争後の社会を描いたテレビ映画「ザ・デイ・アフター」が大反響を呼び、日本でも、米ソの全面戦争を描いたアニメ映画「198X年」(長い間入手困難だったが、現在はアマゾンプライムで視聴可能)が公開されるなど、核戦争の恐怖を皮膚感覚として感じざるを得なかった時代であった。
  その恐怖の中心にあったのが中距離核ミサイル、すなわちソ連のSS‐20と米国のパーシングUであった。INF条約とは、まさにその双方のミサイルを廃棄し、歴史の流れを変えた条約であった。INF条約締結のわずか2年後の1989年には、米国のブッシュ(父)大統領とソ連のゴルバチョフ書記長が冷戦終結を宣言したマルタ会談が行なわれ、その後ほどなくしてベルリンの壁が崩壊した。こうして名実ともに冷戦は終結し、米ソの全面核戦争による人類滅亡の恐怖は去った。INF条約は、文字どおり時代の分水嶺だったのである。
  しかし、それから30年を経て、国際情勢は大きく変動した、ソ連の条約上の義務を継承したロシアと米国については、INF条約の下で射程500?5500キロメートルの地上発射型ミサイルの開発・配備が禁止されていた一方、中国をはじめとして、インド、パキスタン、イラン、イラク、北朝鮮、韓国などがその射程距離のミサイルを保有するようになった。また、米ロ関係も2014年のクリミア危機以後、著しく悪化した。さらにロシアがINF条約で禁止されているはずのミサイルを開発しているとの情報を米国が得たことを直接的なきっかけとして、2019年8月2日にINF条約は失効した。
  INF条約は、そもそも正式名称を「中射程および短射程ミサイルの全廃に関するアメリカ合衆国とソビエト連邦の条約」といい、核弾頭ではなくミサイルのみを規制する条約である。また、条約の当初の署名国は米国とソ連の二か国でしかない。しかし、INF条約は、冷戦の終結プロセスおよびポスト冷戦期の国際安全保障における重要な枠組みの一つであったことは間違いなく、その失効は今後の国際安全保障に大きな影響を及ぼすであろう。
  本書は、そうした問題意識に基づき、INF条約の失効後、すなわちポストINF条約≠フ世界における安全保障上の課題をいくつかの角度から分析したものである。

目 次

略語集 9

はじめに(高橋杉雄)13

INF条約破棄の背景と影響/現行のミサイル技術/ミサイル迎撃システムの開発と課題/本書の構成

第1章 ポストINF時代の安全保障(森本 敏)29

INF条約失効がもたらすもの 29

INF条約の役割と機能/INF条約消滅後の課題

INF条約交渉とその成果 32

冷戦期の米ソ戦略兵器制限交渉/INF交渉の合意と条約批准
米ロのINF条約違反と中国の対応 38

INF条約がもたらした影響/条約違反をめぐる米ロの対立/台頭する中国の戦略とミサイル能力

戦略兵器システムとINFの関係 45

拡散する核戦力の脅威/START条約延長と米中ロの思惑

ポストINF打撃システム配備に関する諸問題 49

INF条約失効後のミサイル開発/米国のINF射程ミサイルの配備計画/中国に対抗するためのミサイル配備/報告書が示す米国のミサイル配備計画/欧州、中東・湾岸地域へのミサイル配備の狙い/INF射程ミサイルの軍備管理の構想と問題点/多国間交渉と中国の非対称的ミサイルの脅威

ポストINF打撃システム配備と日本の安全保障 61

ポストINF交渉に対する日本の原則/日本の安全保障政策とその選択肢/日本が保有すべきミサイル防衛システム

第2章 ポストINF時代の抑止戦略(高橋杉雄)72

「ポストINF条約時代」の到来
「INF条約時代」における抑止戦略の展開 74

「INF条約時代」における抑止概念の変化/精密誘導兵器の発展と拡散:「精密誘導兵器レジーム」の出現/「大国間競争の復活」と「INF時代」の終焉

今後の抑止戦略におけるポストINF打撃システム 79

ポストINF打撃システムの軍事的な特徴/ポストINF打撃システムをめぐる論点の整理

ポストINF時代の戦略環境と抑止戦略 85

ポストINF時代のヨーロッパ/ポストINF時代のアジア太平洋地域

ポストINF条約時代の抑止戦略の課題 94

「セオリー・オブ・ビクトリー」とポストINF打撃システム/米国の「セオリー・オブ・ビクトリー」/戦略的安定性を強化するための軍備管理

第3章 ポストINF時代の軍備管理(戸ア洋史)106

中距離ミサイル問題と日本の課題

核軍備管理の停滞と中距離ミサイル問題 109

核軍備管理をめぐる2010年代の動向/焦点としての中距離ミサイル問題

「新しい枠組み」の課題と日本 119

「新しい枠組み」の論点/対象国とその安全保障利益の調整/冷戦期以後の核軍備管理の目的/対象となる兵器システムをどのように規定するのか/軍備管理交渉に消極的な中国

「新しい枠組み」に向けた軍備管理 135

戦略対話、リスク低減および透明性/能力面での軍備管理の可能性/「新しい枠組み」の追求

第4章 NATO「二重決定」とINF条約(合六 強)150

INF条約の形成と評価 150

冷戦期の「成功」事例

NATO抑止態勢の形成と変容 153

1950年代:核依存への道/1960年代:拡大抑止の信頼性低下と核拡散への懸念/1970年代:パリティの成立とその影響

ソ連のSS‐20配備と「グレーエリア問題」162

配備決定の背景/SS‐20をめぐる二つの評価/カーター政権の消極的姿勢

「二重決定」をめぐる同盟政治 168

中性子爆弾問題をめぐる失敗/政策の転換と信頼性回復の試み/「二重決定」に至る同盟協議

INF交渉からINF条約へ 179

交渉開始と争点/交渉再開から条約締結へ/INF交渉における日本の役割/INF条約の教訓

第5章 ロシアにとってのINF問題(小泉 悠)201

「冷戦の亡霊」と21世紀型「大国間競争」201

条約違反をめぐる米ロの対立

ロシアのINF条約違反疑惑とは何か? 205

疑惑の浮上に至る経緯 /9M729をめぐる「同一性」問題/ロシアによる「9M729」の公表/9M729の配備状況/UAV、標的ミサイル、イージス・アショアに関するロシアの主張

ロシアはなぜINFを必要としたか? 223

冷戦の亡霊/世界第2位の核超大国/台頭する中国への脅威認識/「ユーゴ・ショック」/エスカレーション抑止論をめぐって/それでも残る疑問

INF条約後のロシアの核戦力 243

「鏡面的に対称的な措置」/想定されるポストINF打撃システムとその軍事的効用/ポストINF打撃システムが日本に及ぼす影響

第6章 ポストINF時代の米国の国防戦略と戦力態勢(村野 将)255

米ロ関係とINF問題 256

軍備管理・条約遵守問題としてのINF/ロシアによる条約違反の継続と対抗手段の模索

米中関係とINF問題 264

米国の国防戦略と戦力態勢の見直し/アジア太平洋地域における陸上戦力の再評価/統合作戦構想の発展とポストINF打撃システムの必要性

ポストINF打撃システムの軍事的効用と開発状況 273

ポストINF打撃システムのプログラム化/地上配備型巡航ミサイル(GLCM)の利点と課題/地上発射型対艦攻撃用トマホークの導入と運用構想/地上発射型弾道ミサイルの利点と課題/地上発射型弾道ミサイルの開発状況

ポストINF時代の米国と同盟国 288

ポストINF打撃システムと同盟国の課題/ポストINF打撃システムの運用シナリオ/ポストINF時代の同盟国に求められる主体性

終章 ポストINF時代の日本の課題(高橋杉雄)300

ポストINF打撃システムの戦略的意義 301

ネットワークが支配する現代の戦いの様相/中国の精密攻撃能力の強化/日本自身の問題としてのポストINF時代の安全保障/ポストINF打撃システムと専守防衛/地上発射型ミサイルの非脆弱性を高める方策

ポストINF条約における日本の抑止戦略:一つのイメージ 311

軍備管理をめぐる中国の論点すり替え/ポストINF条約時代の「セオリー・オブ・ビクトリー」/対中国の「セオリー・オブ・ビクトリー」/日米同盟の「セオリー・オブ・ビクトリー」/ヨーロッパから東アジアに移った議論の中心地域

■座談会──
総括:ポストINFの世界はどうなるか? 325

米国のセオリー・オブ・ビクトリー/冷戦期との類似性/ロシアのセオリー・オブ・ビクトリー/ロシア軍産複合体の影響力/中国のセオリー・オブ・ビクトリー/日本のセオリー・オブ・ビクトリー/米中間の戦域打撃戦力のギャップ/精密誘導兵器とエスカレーション/ポストINF打撃システムと中国/中国を軍備管理に引きずり出すには/中ロの軍事協力/新たな軍備管理を求める欧州/地上発射型トマホークは有効か?/巡航ミサイルと中距離弾道ミサイルの組み合わせ/ポストINF打撃システム配備の政治的問題

おわりに(森本 敏)380

執筆者略歴 385

森本 敏(もりもと さとし) 防衛大学校卒業後、防衛省を経て1979(昭和54)年外務省入省。在米日本国大使館一等書記官、情報調査局安全保障政策室長など安全保障の実務を担当。初代防衛大臣補佐官、第11代防衛大臣(民間人初)、防衛大臣政策参与を歴任。2016(平成28)年より拓殖大学総長を務める。主な著書に『どうする? どうなる?「北朝鮮」問題』(共著、海竜社、2018年)、『国家の危機管理』(共著、海竜社、2017年)、『防衛装備庁―防衛産業とその将来』(共著、海竜社、2016年)など。

高橋杉雄(たかはし すぎお) 防衛研究所防衛政策研究室長。1977年早稲田大学大学院政治学研究科修士課程修了。2006年ジョージワシントン大学大学院修士課程修了。1997年より防衛研究所。防衛省防衛政策局防衛政策課戦略企画室兼務などを経て、2020年より現職。核抑止論、日本の防衛政策を中心に研究。主な著書に『「核の忘却」の終わり:核兵器復権の時代」』(共著、勁草書房、2019年)。

戸ア洋史(とさき ひろふみ) 日本国際問題研究所軍縮・科学技術センター主任研究員。九州大学客員教授、広島市立大学非常勤講師などを歴任。専門は核軍備管理・不拡散、核戦略・抑止論など安全保障問題。主な著書に『安全保障論─平和で公正な国際社会の構築に向けて』(共編著、信山社、2015年)、『NPT 核のグローバル・ガバナンス』(共著、岩波書店、2015年)など。大阪大学大学院国際公共政策研究科博士後期課程中途退学。博士(国際公共政策)。

合六 強(ごうろく つよし) 二松学舎大学国際政治経済学部専任講師。慶應義塾大学大学院法学研究科後期博士課程単位取得退学。同大学法学研究科助教などを経て、2017年より現職。専門は米欧関係史、欧州安全保障。主な論文に「西ドイツの核不拡散条約(NPT)署名問題と米国の対応 1968?1969年」(『GRIPS Discussion Paper』18‐3、2018年)、「中性子爆弾問題をめぐる同盟関係、1977?78年:カーター政権の対応を中心に」(『国際情勢』第84号、2014年)など。

小泉 悠(こいずみ ゆう) 早稲田大学社会科学部卒業、同大学院政治学研究科修士課程修了(政治学修士)。民間企業勤務、外務省専門分析員、国会図書館調査員、未来工学研究所研究員などを経て、現在は東京大学先端科学技術研究センター特任助教。ロシアの軍事・安全保障政策を専門とする。主な著書に『「帝国」ロシアの地政学』(東京堂出版、2020年)、『軍事大国ロシア』(作品社、2016年)など。

村野 将(むらの まさし) 米ハドソン研究所研究員。岡崎研究所や官公庁で戦略情報分析・政策立案業務に従事したのち、2019年より現職。マクマスター元国家安全保障担当大統領補佐官らとともに日米防衛協力に関する政策研究プロジェクトを担当。専門は日米の安全保障政策、核・ミサイル防衛政策、抑止論など。主な論文に「平和安全法制後の朝鮮半島有事に備えて:日米韓協力の展望と課題」(『国際安全保障』第47巻第2号、2019年9月)など。