立ち読み   戻る  


はじめに

 中国の国家目標は「中華民族の偉大なる復興」の実現である。習近平・国家主席もこの目標を「中国の夢」と称し、その実現にまい進することを表明している。
  ところで「中華民族の偉大なる復興」とは、どのようなものだろうか? これに関する具体的な政府見解が発表されないこともあり、経済力および軍事力を増大させている中国が、独自の価値観により、周辺国に対する支配圏や影響圏の拡大を企図しているのでないか、との懸念が高まっている。
  中国の国土および地理的国境の概念は歴史的に希薄である。勢力横溢時には周辺に対する支配圏などの拡大が行なわれてきた。
  また近年、通常の地理的国境概念に対し、総合国力の変化によって拡張または縮小する「戦略的辺境(辺疆)」という中国独特の概念も提起されている。中国が一九五三年に発刊した歴史地図集には清王朝の最大版図が示され、これをもって国民に歴史教育が行なわれている。
  こうした領土認識や歴史教育からは、中国が「中華民族の偉大なる復興」を御旗に掲げ、明王朝や清王朝時代の「華戎秩序」の現代版の復活を狙っているとの見方も可能となる。
  現に中国は、東シナ海の正面ではとくに尖閣諸島の領有を目指し、わが国に対する攻勢を強めている。この状況を座視していると、やがて尖閣諸島は中国の手中に落ちてしまうだろう。それのみならず、沖縄までもが中国に略取されることになるかもしれない。
  では、わが国はいかに対処すべきであろうか? 
  そのためには、まず中国の戦略的意図を解明することが前提となる。
  中国は歴史的に「戦わずして勝つ」ことを重視してきた。つまり、インテリジェンスを活用して、謀略を駆使してきた。その基本となるのが「兵法」であり、「兵法」研究こそ中国の戦略的意図の解明に我々を導いてくれよう。
 
  中国では歴史的に兵法書が編纂・体系化されてきた。中国の代表的な兵法書には『孫子』『呉子』『司馬法』『尉繚子』『李衛公問対』『六韜』および『三略』などがあり、これらは『武経七書』と総称されている。
  なかでも「兵は詭道である」と喝破する『孫子』は最も体系化された至上の兵法書である。同書は不戦主義を採用し、戦いよりも、インテリジェンスを利用して、戦勝のための有利な態勢を平時から構築する必要性を説いている。
  今日の中国も、兵法に学び、平素から『孫子』の兵法を駆使して対日工作などを仕掛けている可能性がある。この意味からも、『孫子』をはじめとする、中国兵法を研究する必要がある。
 
  ところで中国には『孫子』と並び称されるもう一つの兵法書がある。それは『兵法三十六計』(以下『三十六計』)である。『孫子』は為政者が愛用した崇高な哲学経典であったが、『三十六計』は日常を生きる実践哲学として、『孫子』よりも民間において広く流通した。その教えは今日まで継承され、現代中国人はビジネスや国際政治、国内政治において有利な立場を築くために『三十六計』を『孫子』以上の実用書として参考にしているという。実際、『毛沢東語録』や現在の中国指導者の発言のなかでも、しばしば『三十六計』が引用されている。
  二〇一三年一月一三日、尖閣諸島北方の東シナ海公海上で、中国海軍のフリゲート艦が海上自衛隊護衛艦に対し、約三分間にわたって射撃管制用レーダー(FCレーダー)を照射した。日本側の抗議に対して中国外交部の華春瑩・報道官は「照射したのは監視レーダー」で、「日本側の『無中生有』だ」と開き直った(68頁参照)。この「無中生有」とは『三十六計』の第七計にあたり、「無の中から有を生ず」を意味する。この報道官の「無中生有」発言にみるとおり、中国が『三十六計』を日常的に用いていることがわかる。
  同時に、現代の中国の国家戦略や対日工作に『三十六計』が応用されていることをうかがわせるものである。よって尖閣問題、反日デモなどの、中国による対日有害活動を『三十六計』にもとづいて分析すれば、水面下に隠されている中国の戦略的意図を読み解くことができ、『孫子』と同様に『三十六計』を知悉すれば、中国との競合において負けない戦いができるのではないだろうか?
『三十六計』は、一七世紀の明朝末期から清朝初期の時代の編纂であるとされる。その原本は一九四一年にフン州(寧州の前身、現在の甘粛省慶陽市寧県)において発見された。その著者は、明代に『孫子』の注釈本を編纂し、「易」の理を軍事戦略に応用した兵法家である趙本学、あるいはその影響を深く受けた人物であるといわれているが、実態は定かではない。
  中国古代の兵法書には「易経」の考え方が広く反映しており、中国古代の兵法家はいずれも「易」の理に精通していた。『三十六計』においても「易経」の考え方が反映されている。
『三十六計』は「勝戦計」「敵戦計」「攻戦計」「混戦計」「併戦計」および「敗戦計」の六組に区分され、各組が六つの計、合計三六の計で構成されている。一つの計が四文字、あるいは三文字の熟語からなる総計一八六文字から構成される極めてシンプルなものである。
  その最大の特徴は『孫子』をはじめとする従前の兵法書から貴重なエキスを抽出して簡潔にまとめている点にある。それゆえに、民間人にも馴染みやすく、『孫子』よりも広く流通し、日常生活やビジネスの世界ではしばしば応用されているのである。
  一方で記述内容が粗削りで、各兵法には類似点が多々あり、その解釈には明確な境界線が引けない。六組六計の配列にも合理性があるとはいえない。
  こうした配列の不合理性は認識しつつも、本書では『三十六計』がどのような兵法であるのかを理解することをまず優先し、本来の配列どおりに『三十六計』を第一計から順に解説して、そのなかで筆者が現実の中国の国家戦略および対日工作に応用されている、あるいは応用する可能性がある事象を挙げて、その兵法の意義をひも解くこととしよう。

 なお、各計の理解を容易にするために、守屋洋氏の『兵法三十六計―古典が教える人生訓』(三笠書房)および永井義男氏の『中国軍事成語集成』(徳間文庫)、カイハン・クリッペンドルフ氏の『兵法三十六計の戦略思考―競合を出し抜く不戦必勝の知謀』(ダイヤモンド社)他から中国小史を参考にさせていただいた。この場を借りてお礼を申し上げたい。
  また、『三十六計』を体系的に理解できるよう筆者オリジナルの「マインドマップ」を次頁に紹介するので適宜参考にしていただきたい。
 




目  次

はじめに 1
序 章  わが国に仕掛けられる『三十六計』 11
第 一 計 瞞天過海(まんてんかかい)繰り返すことで敵の油断を誘う 19
第 二 計 囲魏救趙(いぎきゅうちょう)敵の兵力を分散して各個撃破する 27
第 三 計 借刀殺人(しゃくとうさつじん)相手の力を利用して内部崩壊を誘う 35
第 四 計 以逸待労(いいつたいろう)優勢になるまで待つ 42
第 五 計 趁火打劫(ちんかだきょう)敵の苦境につけ込む 50
第 六 計 声東撃西(せいとうげきせい)敵の予期しないところを攻撃する 57
第 七 計 無中生有(むちゅうしょうゆう)虚偽の事実をでっち上げる 66
第 八 計 暗渡陳倉(あんとちんそう)敵を欺き密かに別の場所を攻撃する 75
第 九 計 隔岸観火(かくがんかんか)静観して「漁夫の利」を得る 83
第 十 計 笑裏蔵刀(しょうりぞうとう)微笑み戦術で相手の警戒心を解く 93
第 十 一 計 李代桃僵(りだいとうきょう)一時的に損して得をとる 100
第 十 二 計 順手牽羊(じゅんしゅけんよう)わずかな隙をついて我が物にする 112
第 十 三 計 打草驚蛇(だそうきょうだ)「威力偵察」で相手の真意を探る 120
第 十 四 計 借屍還魂(しゃくしかんこん)利用できるものはすべて利用する 127
第 十 五 計 調虎離山(ちょうこりざん)我の優位な領域に誘い込む 134
第 十 六 計 欲擒姑縦(よくきんこしょう)あえて敵を泳がす 141
第 十 七 計 抛磚引玉(ほうせんいんぎょく)海老で鯛を釣る 150
第 十 八 計 擒賊擒王(きんぞくきんおう)指導者を籠絡する 155
第 十 九 計 釜底抽薪(ふていちゅうしん)力の源泉を排除する 164
第 二 十 計 混水摸魚(こんすいぼぎょ)敵内部に混乱を生起させる 173
第二十一計 金蝉脱殻(きんせんだっこく)密かに危機から脱出する 183
第二十二計 関門捉賊(かんもんそくぞく)十分な戦力をもって包囲撃滅する 190
第二十三計 遠交近攻(えんこうきんこう)遠くの国と同盟を結び、近き国を攻める 196
第二十四計 仮道伐カク(かどうばっかく)目先の利益を大義名分で獲得する 203
第二十五計 偸梁換柱(とうりょうかんちゅう)じっくりと骨抜きにする 210
第二十六計 指桑罵槐(しそうばかい)あえて別のものを攻撃する 216
第二十七計 仮痴不癲(かちふてん)愚かなふりして相手を油断させる 225
第二十八計 上屋抽梯(じょうおくちゅうてい)敵を誘い出して梯子を外す 232
第二十九計 樹上開花(じゅじょうかいか)能力以上に見せて牽制する 238
第 三 十 計 反客為主(はんかくいしゅ)弱いふりをして乗っ取る 243
第三十一計 美人計(びじんけい)ハニ―トラップで籠絡する 248
第三十二計 空城計(くうじょうけい)無防備と見せかけて判断を惑わす 253
第三十三計 反間計(はんかんけい)敵のスパイを逆用する 262
第三十四計 苦肉計(くにくけい)わが身を犠牲にして警戒心を解く 267
第三十五計 連環計(れんかんけい)複数の計略を連続して用いる 271
第三十六計 走為上(そういじょう)無駄な戦いは避ける 277
終 章  わが国も兵法を逆用せよ! 285
参考文献一覧 307
おわりに 309

資料1 中国軍高官の好戦的な発言 296
資料2 尖閣諸島、ガス田をめぐる経緯 297
資料3 中国の南シナ海進出の経緯 302

上田篤盛(うえだ・あつもり)
1960年広島県生まれ。元防衛省情報分析官。防衛大学校(国際関係論)卒業後、1984年に陸上自衛隊に入隊。87年に陸上自衛隊調査学校の語学課程に入校以降、情報関係職に従事。92年から95年にかけて在バングラデシュ日本国大使館において警備官として勤務し、危機管理、邦人安全対策などを担当。帰国後、調査学校教官をへて戦略情報課程および総合情報課程を履修。その後、防衛省情報分析官および陸上自衛隊情報教官などとして勤務。2015年定年退官。現在、軍事アナリストとして活躍。メルマガ「軍事情報」で連載。著書に『中国軍事用語事典(共著)』(蒼蒼社)、『中国の軍事力 2020年の将来予測(共著)』(蒼蒼社)、『戦略的インテリジェンス入門―分析手法の手引き』(並木書房)、『中国が仕掛けるインテリジェンス戦争』(並木書房)など。