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 はじめに

 今から二千五百年以上も昔の春秋時代に書かれた『孫子兵法』が、日本において古くから武士の基本的な教養書とされ、今日でも政治家、スポーツ選手、ビジネスマンに幅広く活用されているのは、十三篇から成るその記述体系が、「戦略的思考」のプロセスそのものだからである。
  本書は、急速に変化する現代において、自ら考え、判断するために必要不可欠な、この「戦略的思考」を身につけるため、和漢古今の兵法の原点ともいうべき『孫子兵法』を、図解や事例を交えながら、できるだけ平易に解説したものである。
  このため、本書では、全十三篇の内容を各篇ごと個別に読んで解説するだけではなく、異なる五つの観点から『孫子兵法』を立体的に捉えることができるようにした。
  第一章では、名将たちが座右の書とした『孫子兵法』の全体構成や各篇の概要を紹介しながら、戦略・戦術および兵法とは何か、「戦略的思考」とはどのようなものかを現代的な視点から解説するとともに、現代社会における組織や業務に活かすためのポイントを提示する。
  第二章では、不朽の兵法書とされる『孫子兵法』が、いつ、どのようにして日本に入ってきたか、そして、どのような影響を及ぼしたのかについて、歴史的に解説する。
  第三章では、『孫子兵法』第一篇「始計」から第十三篇「用間」までの全十三篇を、各篇ごとに「概要」「原文(読み下し文)」「現代語訳」「解説」の順で提示しながら理解を深めていく。
  第四章では、『孫子兵法』全十三篇を総括し、「敵を知る」「己を知る」「地を知り、天を知る」のそれぞれが真に意味するものは何かについて詳しく論じる。
  第五章では、『孫子兵法』が、日本において武士の基本的な教養書とされ、その思考や行動の根底を為したことの一例として、幕末の天才的兵法家・吉田松陰のエピソードを紹介する。

 現在、『孫子兵法』として伝わるものは、春秋時代に孫武によって書かれ、秦の始皇帝による焚書坑儒でいったんは消失した『竹簡本』と、のちに魏の武帝(曹操)が残存していた竹簡の欠片を元に再編纂し、注を加えた『魏武注本』の二種類に分けられる。当然、それぞれの『孫子』には異なる記述が見られ、どちらも正しいことを論じているにもかかわらず、読者にはまったく逆のことを述べているかのような誤解や混乱を招いてきた。そこで本書では、このような部分についてはどちらの記述も取り入れて併記しながら、その前提の違いをわかりやすく解説した。
  また、原書が漢文であるため、本によって読み下し文が異なり、それゆえに解釈も違っている。そこで、本書では江戸時代の優れた兵法家・山鹿素行の『孫子諺義』から、読み下し文や解釈の多くを引用することにした。




目 次

はじめに

第一章『孫子兵法』に学ぶ戦略・戦術 9

▼ 戦いの四要素──「我」「敵」「空間」「時間」9
▼ 戦略・戦術・戦法の違い 10
▼ 幅広い意味を持つ「兵」13
▼ 戦略的思考と『孫子』の記述体系 14
▼「IDAサイクル」を繰り返して勝利する 15
▼「戦わずして敵を屈服させるのは善の善なり」17
▼ 戦いに勝つために必要な条件 21
▼ 古今東西で共通する「戦勝の原則」22
▼「奇正」は我にあり、「虚実」は敵にあり 23
▼ 現代にも通用する「勝つための戦術・戦法」25
▼ 用間(スパイ)を駆使して敵の内実を知る 26
▼ 日常業務に、戦略的思考を取り入れる 27

第二章『孫子兵法』が日本に及ぼした影響 31

▼ 焚書坑儒で焼失した『孫子兵法』31
▼ 謎の兵法書『兵法秘術一巻書』31
▼ 魏の武帝・曹操が編纂した『魏武注孫子』32
▼ 継体天皇と『孫子兵法』33
▼ 遣唐使・吉備真備と恵美押勝の乱 36
▼ 日本に存在した「孫武撰『孫子兵法』」38
▼ 秘伝兵法、大江匡房から源義家へ伝授 39
▼『孫子』の兵法を極めた源義経 40
▼ 鎌倉幕府と朝廷の対立 40
▼ 蒙古襲来を切り抜けた若き執権・北条時宗 41
▼ 鎌倉幕府を滅亡に追いやった兵法の天才・楠木正成 42
▼『孫子』の大量流入により「軍師」が登場 42
▼「応仁の乱」は第二の焚書坑儒 43
▼ 日本にも戦国時代がやってきた 44
▼『古文孫子』の出現と竹簡本『孫子兵法』の発掘 45
▼ 孫子日く兵者国之大事也。45

第三章『孫子兵法』全篇を読む 47

第一篇「始 計」47

第一篇「始計」の解説 51
▼『孫子』が前提とする「戦争」とは? 51
▼ 戦争に勝つための三つの判断 54
▼「始めにおいて終りを考えよ」54
▼「廟算」を徹底して行ない、漏れのない作戦 55
▼ 作戦計画に固執せず、機転を利かせて勝つ 55
▼『孫子』と『闘戦経』の「詭道」をめぐる解釈 56

第二篇「作 戦」59

第二篇「作戦」の解説 63
▼「兵を用うるの法」とは? 63
▼ 長期戦を避ける 66
▼ 大東亜戦争における日本の戦費 66
▼ なぜ敵地の一鐘は自国の二十鐘に相当するか? 69
▼ 戦車十乗と戦車十両の違いは何か 69

第三篇「謀 攻」70

第三篇「謀攻」の解説 75
▼ 春秋時代の軍隊の編成 75
▼ 戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり 77
▼ 道義と精兵をもって敵を屈服させる 80
▼ 少ない損失で最大の利益を得る 81
▼「交を伐つ」に二つの解釈あり 82
▼ 敵との兵力差に応じた戦い方 83
▼ 戦略と戦術の関係 84
▼ 小敵の堅きは、大敵の擒なり 85
▼ 君主は良将を選んで任せよ 86
▼ 彼を知りて己れを知れば、百戦して殆うからず 87

第四篇「軍 形」89

第四篇「軍形」の解説 93
▼ 勝は知るべし、而して為すべからず 93
▼「防御」と「攻撃」について 96
▼「道を修めて法を保つ」に二つあり 97
▼ 彼我の態勢を見積り、勝算を得る 98
▼ 時々で変化する「軍の形」99

第五篇「兵 勢」103

第五篇「兵勢」の解説 110
▼ 第四篇「軍形」と第五篇「兵勢」は表裏一体 110
▼「正を以て合い、奇を以て勝つ」に三段階あり 111
▼「奇正」と「虚実」の関係 113

第六篇「虚 実」115

第六篇「虚実」の解説 121
▼「軍形」「兵勢」と「虚実」について 121
▼ 第六篇を貫く大原則「人を致して人に致されず」125
▼ 敵の「虚」を撃つ奇襲 126
▼「虚実の理」と情報の優越 127
▼ 敵情の解明について 128
▼ 兵を形すの極、形無きに至る 129

第七篇「軍 争」130

第七篇「軍争」の解説 139
▼「迂直の計」を知る者 139
▼「風林火山」について 140
▼「変を治むる」と「変化の理」141

第八篇「九 変」142

第八篇「九変」の解説 148
▼「変を治める」をさらに具体化 148
▼「君命に受けざる所あり」こそ「九変」の要 149
▼ いつ敵が来ても大丈夫な物心両面の備え 149
▼ 将の五過とは「智・信・仁・勇・厳」を欠くこと 151

第九篇「行 軍」151

第九篇「行軍」の解説 160
▼ 各篇と軍争・九変・行軍の関係 160
▼ 良好な場所に軍を置く 164
▼ 土地にも「実」と「虚」がある 164
▼ 表面に顕れた事象から真実を推察する 165
▼ 敵を相る―戦場における情報活動 166
▼ 力を併せて敵を料り、人を取る 167
▼ 威厳と愛情を偏ることなく統率する 170
▼ 上下の心を一つにする兵法の真髄 170

第十篇「地 形」171

第十篇「地形」の解説 179
▼ 地形に応じて兵を用いる「地の道」179
▼「支」の地形では先に攻撃したほうが負ける 182
▼『孫子』を知る家康の圧勝に終わった「小牧の対陣」183
▼「敵を知り、己を知る」が主、「地を知る」は補助 185

第十一篇「九 地」186

第十一篇「九地」の解説 197
▼「地形の常」と「地勢の変」197
▼ 最も理想的な「覇王の兵」200
▼ 四つの地形と五つの地勢に応じた九つの戦い方 204

第十二篇「火 攻」205

第十二篇「火攻」の解説 211
▼ 火攻めと水攻めの違い 211
▼「道」において勝利しなければならない 211
▼ 軽々しく軍を動かすことを戒める 212

第十三篇「用 間」212

第十三篇「用間」の解説 217
▼ 七家が一家を支える「井田法」217
▼「間者」と「斥候」の違いは? 220
▼ 敵よりも「先に知る」ことの重要性 220
▼ 君主や将軍の最高の資質「聖智」「仁義」「微妙」222
▼ 千早城の戦いにおける楠木正成の「用間」223

第四章 敵を知り、己を知り、地を知り、天を知る 226

総括篇1 敵を知る 情報と戦略的思考 226
▼ 第一篇「始計」とは、戦略的思考そのもの 226
▼「敵情解明のプロセス」227
▼「七計」により、「敵の道・将・法」を知る 228
▼「廟算」により、「敵の形勢」を知る 228
▼「勢」においては、何よりも「敵の虚実」を知る 229

総括篇2 己を知る 道・将・法を常に治める 231
▼「己を知る」とは、道・将・法を「識る」こと 231
▼ 善く兵を用うる者は、道を修めて法を保つ 232
▼ 兵士らは道義に殉じ、徳政により民心を得る 232
▼ 末端まで編成区分し、指揮・統制手段を徹底 232
▼「正兵」を練成し、「無形の兵」に至らしめる 233
▼ 長期戦を避け、食糧は敵地で調達する 234
▼「戦わずして人の兵を屈する」の極意 234

総括篇3 己を知る 将軍の資質 235
▼ 将は国の輔、国家安危の主なり 235
▼ 智力について 235
▼ 信頼について 236
▼ 仁愛について 237
▼ 勇気について 237
▼ 厳しさについて 238
▼ 将の五危と敗の道 239

総括篇4 地を知り、天を知る 勝ちを全うする 240
▼ 地は、遠近・険易・広狭・死生なり 240
▼ 戦術行動と「地の利」240
▼ 戦うべきと戦うべからざるとを知る 241
▼ 四軍の利―軍を処き、敵を相る 243
▼ 地の道―地形の常 243
▼ 敵を料り、勝を制し、険阨・遠近を計る 244
▼ 五火の変を知り、数を以て守る 244
▼ 九変の術―勝ちを全うする 245

第五章『孫子兵法』と吉田松陰 248

▼ 孫子からクラウゼウィッツまで学ぶ 248
▼ 謀略・知略・計策の三本柱からなる山鹿流兵法 249
▼ 国難の時代こそ皇室中心の精神的武備を重視 250
▼ 西洋の「三兵戦術」を凌駕する松陰の「四兵戦術」251
▼「勝算あり」吉田松陰の黒船撃滅作戦 252
▼ 松陰を「上智の間者」に選んだ佐久間象山 253
▼ アメリカ密航を試みた本当の理由 253
▼ 吉田松陰の思想の根底にあった「用間」255

参考文献 257
おわりに 258

家村和幸(いえむら・かずゆき)
兵法研究家。防衛大学校卒(国際関係論)幹部任官後、第72戦車連隊にて戦車小隊長、情報幹部、運用訓練幹部として勤務。その後、指揮幕僚課程、中部方面総監部兵站幕僚、戦車中隊長、陸上幕僚監部留学担当幕僚、第6偵察隊長、幹部学校戦術教官、研究本部教育訓練担当研究員を歴任し、平成22年10月退官、予備自衛官(予備二等陸佐)となる。現在、日本兵法研究会会長として、兵法及び武士道精神を研究しつつ、軍事や国防について広く国民に理解・普及させる活動を展開している。著書に『真実の「日本戦史」』『真実の「日本戦史」戦国武将編』(宝島SUGOI文庫)、『『図解雑学―名将に学ぶ世界の戦術』(ナツメ社)、『『なぜ戦争は起きるのか―この一冊で本当の「戦争」が解かる』(宝島社新書)、『闘戦経―武士道精神の原点を読み解く』『兵法の天才楠木正成を読む』『大東亜戦争と本土決戦の真実─日本陸軍はなぜ水際撃滅に帰結したのか』(並木書房)がある。