まえがき

　一九八〇年代以降、�ｹ小平が主導する改革開放政策により、中国は飛躍的な経済発展を遂げた。それにより国民の生活水準の大幅な向上がみられたが、経済格差と失業者の増大、宗教・民族問題、農村人口の流出、共産党政権の腐敗・汚職、これに対する国民不満の増大などのさまざまな不安定要因が山積し、現共産党政権の存続の安危も取り沙汰されている。
　 他方で中国は、飛躍的な経済発展を背景に軍事力の近代化政策を押し進め、科学技術を主体とする軍の「情報化」を指向し、軍事大国としての体裁を着実に整えつつある。経済発展と軍事強化の先にある国家目標は、共産党政権を維持し、米国の一極支配を打破し、「中華民族の偉大なる復興」を果たし、米国に伍する世界大国になることを目指しているのであろう。このための当面の目標となるのが台湾を併合し、建国以来の悲願である祖国統一を成就することである。
　 こうした状況下、中国による情報活動や秘密工作は、共産党政権の安定維持、台湾併合のための有利な国際環境の構築、経済発展および軍事力強化のための科学技術の獲得など、広範多岐な役割を担っている。そのため中国の将来動向を見積るうえで、中国による情報活動などに対する研究を行なうことの意義は大きい。
　 本書においては情報活動、諜報活動、カウンターインテリジェンス、秘密工作、秘密戦、プロパガンダなどと呼ばれる活動を総称する場合には、「インテリジェンス戦争」という言葉を用いることとする。なぜならば、かかる情報活動などは平時における非軍事戦争そのものであり、国家戦略の下で統一して行なわれる総力戦の一環であって、インテリジェンスを用いた戦争と認識して対処すべきであると思うからである。それゆえに、本書のタイトルも『中国が仕掛けるインテリジェンス戦争』とすることにした。

　さて、昨今の日中関係について目を転じれば、両国間には歴史認識問題、台湾問題、東シナ海のガス田をめぐる利権争い、さらには尖閣諸島問題など、種々の対立点が顕在化している。これらをめぐっては時間の経過とともに、いつの間にか中国による対日優位の態勢が構築されている。その要因の一つには、中国情報機関などによる水面下でのインテリジェンス戦争の存在を挙げることができる。
　 将来的に日中間に軍事衝突が生起すれば、中国は軍事力行使の前段階として、平素のインテリジェンス戦争を本格化させるほか、有事には武力戦と併用した心理戦、宣伝戦、サイバー戦などを仕掛ける可能性が高い。日中軍事衝突の危険性を察知し、事態のエスカレーションを防止する、万一の事態発生時に迅速に対応するためにも、中国によるインテリジェンス戦争の展開をシミュレートし、平素からその対応策を検討しておくことが必要となろう。
　
　 本書は以下の構成になっている。
　 第１章では、中国情報機関が設立されるに至った歴史的背景や当時の活動状況について解説する。
　 第２章では、今日の中国情報機関の概要および特性について解説し、インテリジェンス戦争を行なう主体について考察する。
　 第３章と第４章では、今日の中国の国家戦略を推察し、そこから情報活動の役割、活動内容、秘密工作の実態・特徴などをひも解く。
　 第５章と第６章では、それぞれ軍事におけるインテリジェンス戦争と対日インテリジェンス戦争をトピックとして取り上げ、中国がわが国に仕掛けるインテリジェンス戦争の実態に対する脅威認識を深める。
　 第７章では、予想される日中衝突シナリオを想定し、その中で展開されるであろう対日インテリジェンス戦争の実像に迫る。
　 以上の順序を踏まえ、終章では各章の主要点を総括しつつ、中国のインテリジェンス戦争に対する対応策について、主としてインテリジェンスの観点から筆者の私見を提示することとしたい。
　
　 本書は、すべて公開資料（オシント）を基に記述しており、いわゆる伝聞情報はいっさいない。そもそも、各国とも情報機関や情報活動の類はほとんどが秘密事項であり、伝聞情報は出所不明なことが多い。とりわけ中国の中でも特段に秘密性が高い中国情報機関に関して信頼できる情報は乏しいと思う。
　 したがって、本書を執筆するにあたっては、できるだけ複数の公開資料にあたり、個々の資料の妥当性、他の資料との一貫性、内容の正確性などの評価を試みつつ、中国の国家戦略・政策を踏まえ、筆者が長年の情報分析で培った尺度に照らし、全体像をジグソーパズルのように組み立てる手法をとった。そもそも、他の領域における中国情勢の分析も多くはそのような過程を経るものであろう。
　 本書は、この種の著述に付き物の「センセーショナリズム」や一方的な「中国悪玉論」を排除し、中国が国家戦略の一環として展開しているインテリジェンス戦争の実像に、戦略的思考をもって迫ることを意識したつもりである。
　 本書は、歴史検証を目的としたものではないことをお断りする。あくまでも中国によるインテリジェンス戦争の実態を戦略的に把握し、中国が仕掛ける対日インテリジェンス戦争への対処法に関する教訓を得ることを狙いとする。読者におかれては、かならずしも全章をお読みいただく必要はないと思う。興味ある章からお読みいただき、中国によるインテリジェンス戦争が水面下で仕掛けられ、現在の日中間問題などにおいて中国優位の態勢を形成していることと、それに対処することの重要性をご理解いただければ、筆者として幸甚である。

目　次

まえがき　１

第１章　中国インテリジェンス戦争の歴史　９

１ 新中国建国までの中国情報機関の沿革　９
２ 建国までのインテリジェンス戦争の歴史　19
３ 中共によるインテリジェンス戦争の実態　21
４ 新中国建国から文化大革命までの歴史　26
５ 文化大革命後から現在までの歴史　35

第２章　中国情報機関の概要　41
　
１ 中国情報機関の特徴　41
２ 政府系列の情報機関　48
３ 軍系列の情報機関　56
４ 党系統の情報関連機関　62

第３章　中国における情報活動の役割　67

１ 中国の国家戦略と情報機関の役割　67
２ 国内の安定維持　69
３ 国家の安全保障　81
４ 科学技術および経済情報の取得　89
５ 祖国統一の最終章「台湾併合」101

第４章　中国の工作活動　114

１ 国内活動　114
２ 国外活動　130
３ 各種の秘密工作　149

第５章　軍事インテリジェンス戦争　160

１ 戦略レベルの活動　160
２ 戦役・作戦レベルの活動　165
３ 軍内保全とカウンターインテリジェンス　171
４ 情報作戦　174
５ 軍事交流とインテリジェンス戦争　186

第６章　対日インテリジェンス戦争　194

１ インテリジェンス戦争の関連組織　194
２ インテリジェンス戦争の実態　200

第７章　日中インテリジェンス戦争　223

１ 日中対決のシナリオ　223
２ 有事におけるインテリジェンス戦争　225

終章　中国インテリジェンス戦争への対処法　232

対中脅威認識を常に保持せよ！　232
日米同盟を堅持せよ！　234
情報共有を活性化せよ！　235
法的措置を強化せよ！　236
ヒューミント機能は段階的に強化せよ！　237
有事情報体制を整備せよ！　239

資料１ 中国インテリジェンス戦争史　242
資料２ 情報関連機関　252
資料３ 主要事件簿　262
資料４ 中国による文書発禁・報道機関処分　276
参考文献　278
あとがき　282

上田篤盛（うえだ・あつもり）
1960年広島県生まれ。元防衛省情報分析官。防衛大学校（国際関係論）卒業後、1984年に陸上自衛隊に入隊。87年に陸上自衛隊調査学校の語学課程に入校以降、情報関係職に従事。92年から95年にかけて在バングラデシュ日本国大使館において警備官として勤務し、危機管理、邦人安全対策などを担当。帰国後、調査学校教官をへて戦略情報課程および総合情報課程を履修。その後、防衛省情報分析官および陸上自衛隊情報教官などとして勤務。2015年定年退官。現在、軍事アナリストとしてメルマガ「軍事情報」に連載中。著書に『中国軍事用語事典（共著）』（蒼蒼社、2006年11月）、『中国の軍事力 2020年の将来予測（共著）』（蒼蒼社、2008年9月）、『戦略的インテリジェンス入門―分析手法の手引き』（並木書房、2016年1月）など。