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序 新潟港北岸壁(一部)

 果たして日輪は瞼の裏に赫奕と昇るのだろうか……。
  長い間、その作家の名を冠した研究会の事務局長をつとめてきたのに、ほとんどそのひとの小説は読んだことがなかった。だが、さすがに同志たちの間でかねて評判の小説『奔馬』だけは読んでいて、有名な結びの一行も覚えていた。
  その最終行がこの期に及んで、男の胸にフッと去来したのは、いままさに自分が小説の主人公と同じことを為そうとしているからであったろうか。
  日本海に面した信濃川河口東側――通称北岸壁と呼ばれる埠頭は漆黒の闇に包まれていた。寒風が吹きすさび、大粒の雪さえ舞う師走初旬、夜九時過ぎの新潟東港。空は一面、厚い雲に覆われ、月さえ見えなかった。対岸の遠い彼方に瞬く市内繁華街のネオンサイン。
  この北岸壁は彼にとって昔からの馴染みの場所であった。すぐ目と鼻の先に菩提寺があり、毎年盆に兄弟たちと墓参りをした後で、ひとりここへ立ち寄るのが恒例になっていたからだ。
  眼前では信濃川と日本海が結ばれていたが、なぜか背後に太平洋が迫っているように見えたのは、子ども心に不思議だった。あれこそオレにとっての真珠湾であったのかもしれない、とは後年の男の回想であった。
  結局、ここへ還ってきたのだ。昇る日輪も、かがやく海も、けだかい松の樹の根方も、オレには必要がなかったけれど、死ぬときはここがいい――と、いつのころからか決めていたような気がした。
  海側に背を向けて正座し、東の空の彼方の皇居に遙拝したあとで、庖丁を手にしたときからいろんな思いが男の脳裏を駆け巡っていた。
  なぜ死ななければならないのか。彼にすれば、そんなことはいままで何度も口にしてきたことだった。いったん維新革命という志を立てた以上、ただ一筋に志に生き、その夢をどこまでも追い求め命を懸けて闘って死んでいくのが、維新運動に携わる者の筋道であり、節義というものであろう。
「決死勤皇 生涯志士」の八文字を胸に刻んで、生涯志士であり、志士で生き、志士で死にたいと願ってきた。それこそ自分が自分であることの存在証明であったのだが、最後はやはり日本男児として古式に則った所作で思いを為しとげたかった。つねに布団の下に出刃庖丁を置いて寝たのも、その覚悟を固めるためだった。
  辞世の句を作ったのも、十年以上も前のことである。

  人として 大和に生まれ 男なら 究め尽さむ 皇国の道

  赤々と 燃えに燃えにし 我が命 誠の道を 知るは神のみ

 もはや潮どきであったのだ。研究会で最も大事な年に一度の祭祀も無事にやりとげ、墓前奉告祭も粛然と済ませた。あとは自分のけじめをつける番だった。
  男は庖丁の柄を両手で逆向きに握り締めると、刃を己の腹に向けて構えた。ここへ来る前に、街の金物屋で買った小振りの庖丁であった。日本刀を入手しようという気は最初からなく、腹が切れるものなら何でもよかった。
  高ぶる気持ちを鎮めようとしばらく瞑目したあとで、カッと眼を見開いた。男の胆は定まったのだ。
  大きく息を吸い、また吐きだしながら丹田に力を込めて「えいっ!」という裂帛の気合い。と同時に、庖丁を思いきり左胸に突き刺した。
  目が眩むような衝撃に耐え、そのまま庖丁を一直線に腹まで引きおろした。
  刃を引き抜くと、たちまち鮮血が溢れ出てくる。血に塗れた庖丁を手にしたまま、男はそれを再び気合いを入れて首の左側へと突き刺した。頸動脈と思しきあたりだった。
  あまりの激痛に意識も朦朧とするなか、ありったけの気力を振り絞り、一気にそこを掻き切った……。
(以下続く)




目 次

序 新潟港北岸壁 3

第一章 西ノカタ陽關ヲ出ヅレバ…… 11

第二章 日学同篇――友情の絆、天と海 星を貫く鎖のごと強し 38

第三章 重遠社篇――任重ク道遠シ、我が往く道は修羅なり 99

第四章 唯我一人ノミ能ク救護ヲ為ス 166

解説  玉川博己(三島由紀夫研究会代表幹事) 226

解 説(一部)

玉川 博己(三島由紀夫研究会代表幹事)

 本書が描く三浦重周(本名重雄)は昭和二十四年九月に新潟県巻町(現新潟市)で生まれ、平成十七年十二月郷里に近い新潟港岸壁で自刃によって命を絶ち、五十六歳の生涯を終えた民族派の社会運動家である。三浦重周の名前は世間一般では殆ど知られず、マスコミもわずかに「週刊新潮」が三浦重周の死の直後にそのコラムで彼の自刃を簡単に紹介しただけであった。
  筆者の山平重樹氏が題名に選んだ「決死勤皇 生涯志士」とは生前の三浦重周の座右の銘であり、また世の名利や栄達を求めず、文字通り清貧にして高潔なひとりの草莽の士として生きた三浦重周にふさわしい題名ではないだろうか。三浦重周のひっそりとした死は、昭和三十五年安保騒動の年の秋に社会党の浅沼稲次郎委員長を刺殺し、その後獄中で自決して世間を驚かせた十七歳の山口二矢少年の死とも、また昭和四十五年十一月市ヶ谷台の陸上自衛隊東部方面総監部で憲法改正を訴えて壮烈な自刃を遂げた三島由紀夫、森田必勝の両氏の死とも全く異なり、極めて静かな死であった。私が当時彼の死の知らせを聞いて真っ先に脳裏に浮かんだのは江戸時代寛政期の勤皇家である高山彦九郎であり、昭和五十年三島由紀夫の後を追うように自裁した作家の村上一郎であり、そして昭和五十四年元号法案の成立を熱?して自決した大東塾の影山正治塾長であった。派手なことを嫌い、自ら有名人になることを望まなかった三浦重周はおそらくこうした先人たちの生き方を誰よりも深く考えていたのではないだろうか。

 筆者の山平重樹氏は学生時代以来三浦重周と親しくその人となりをよく知る作家である。山平重樹氏はすでに『果てなき夢 ドキュメント新右翼』(平成元年、二十一世紀書院)と『戦後アウトローの死に様』(平成二十五年、双葉新書)の二冊の著書において三浦重周のことについても触れているが、今回あらためて少年時代から最期にいたるまで三浦重周と交流のあった多くの知人、友人に直接インタビューを行ない、極めて多角的に三浦重周というひとりの人間の人物像とその生涯を描いたものである。

(中略)
 
  三浦重周は幼少期から頭脳明晰学業優秀であり、望めば政治家にも学者にもまたはジャーナリストにもなりえた才能の持ち主であった。しかし生来不器用な彼は自ら信ずる道を途中で放擲することをせず、世間的な利己と名誉を求めることなく、あくまで生涯にわたって信念を貫く生き方を選んだといえる。本書のタイトルでもある「決死勤皇 生涯志士」はまさに三浦重周の生き方を表す言葉である。
  晩年の三浦重周は決して他人の悪口をいわず、逆に党派をこえて多くの人士から愛され、慕われる存在であった。吉田松陰や西郷南洲がそうであったように、何よりも至誠を重んじ、他人に対する思いやりを大切にした三浦重周は、彼と接すれば接するほどその人柄が他人を引き付ける不思議な魅力を持っていた。それは三浦重周の同志、仲間たちだけでなく、それまで三浦重周と敵対していた人々をも最後には三浦のシンパにしてしまう力であった。本書で書かれた多くの知人、友人たちの証言からもそれがうかがえることができよう。だから三浦重周の死後もその命日である「早雪忌」には今なお多くの友人や後輩が集まってその人徳を偲んでいる。生涯至誠純忠、敬天愛人の精神を貫き、清貧に甘んじた三浦重周は財産を何も残さなかったが、しかし一方で彼が残したものは、彼を慕う多くの友人と弟子たちであった。その彼らが今は三浦重周の遺志を受け継いで「憂国忌」運動をたゆむことなく続けているのである。三浦重周は決して何か大きなことを成し遂げた有名人でもないし、またいわゆる右翼テロリストでもなく、あくまでも草莽の志士として生き、そして静かに死んでいった男であった。多くの読者が本書を通じて、戦後日本のある時期に野にあってこのように高い志をもって生きた三浦重周という男がいたこと、そしてその人となりを知って頂ければ、ひとりの友人として望外の喜びである。最後に三浦重周伝をこのような力作に書き上げて頂いた筆者の山平重樹氏に対して敬意と感謝の念を捧げたい。

山平重樹(やまだいら・しげき)
昭和28年山形県生まれ。法政大学文学部卒業。アウトローの生き様を描き続け、ノンフィクション、ルポルタージュ、小説など幅広いジャンルで活躍中。実在するヤクザの交渉術を記した「ヤクザに学ぶ」シリーズがベストセラーを記録。『殘侠』『愚連隊列伝 モロッコの辰』など映画化、Vシネ化された著作をはじめ、『ヤクザの散り際 歴史に名を刻む40人』『連合赤軍物語 紅炎(プロミネンス)』『実録小説 神戸芸能社〜山口組・田岡一雄三代目と戦後芸能界』など著書多数。
近著に『高倉健と任侠映画』(徳間文庫カレッジ)がある。