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はじめに

 高校の日本史教科書が昭和のころに比べてずいぶん変わっているという報道がされている。歴史をあつかう雑誌でも特集が組まれ、新進の若手研究者たちがそうした動向について書いている。
  ある機会があって、中学校の社会科教師たちと出会った。その会合で話題になったのは、長篠合戦だった。有名な織田・徳川連合軍と、武田軍との設楽原での決戦の話である。
  旧式な戦法にしがみついた武田軍が、斬新な鉄砲の運用をする織田軍に敗れるというストーリーは、あまりに有名だが、その定説をくつがえすような論争が戦わされていて、今も決着がついていない。
  長篠合戦に続いて、話題は「信長は先進的だったか?」に移った。世界各国の、当時は欧州の状態と比べるしかないが、軍事指導者の中で、信長は最も進んでいた人だったのだろうか? おそらく、その答えは「NO」だろう。鉄砲兵の集団運用というなら信長はごく普通だった。鉄砲の連続発射を可能にするような工夫もまた、誰もが考えついたようなことである。
「いや、そうじゃない。当時の人にとっては画期的なのだ」という論者もいるが、欧州の軍事史だけではなく、わが国の史料を調べても、射手が交代して射撃の間隔をなくすという方法が信長のオリジナルだったとはとてもいえない。紀州の根来や雑賀の鉄砲衆では常識だったからだ。
  さらに、当時の武士たちの戦い方についても話題が広がったが、軍事史の知識が乏しい人ばかりである。たいへん説明に苦労した。中学校の先生たちにとって、武器や武具、あるいは戦闘ということ、また、兵糧・馬糧をはじめ、弾薬、攻城用の資材など、ほとんどが初耳の話ばかりであったからだ。日本史を教えると言いながら、教師が戦争・軍事に関することを苦手とし、避けてきた積年の伝統があるからだろう。
  鎌倉幕府から室町政権、戦国時代から江戸時代は、「武を生業」とする人たちがイニシアティブをとった時代である。その時代を知るためには「武」についてもっと知らなくてはならない。そのためには、小説やドラマだけではなく、史料の原典にあたり、それぞれの解釈をすべきではないか。社会科教師たちとの話は、そんな結論で終わった。

 教科書は変わってゆく

 教科書は変わる。社会の変化があり、研究も進んでくる。その時代の教育課程にしたがった教科書の記述の中味も変わる。教科書「で」教えると言いながら、じっさいは教科書「を」解説するのが現場の授業だから、教科書の変化は影響が大きい。
  新しい研究成果が出されると、学会では専門の研究者たちがその妥当性を討議する。多くの人に認められると、それが学会を代表する定説となる。続いてそれが教科書会社の執筆者会議の議題になり、現場の教員の代表者たちと学者たちが集まって話し合う。そこでは新しい記述案が出される。教科書会社は、これをまとめて検定前の「白表紙」という形にする。最後に文部科学省の教科調査官がそれを審査する。
  この一連の流れには、ひどく時間がかかる。おおよそ30年という。30年といえば一世代であり、父母や子供とは教科書の内容が違っていて当然である。
  いくつか例をあげよう。
  13世紀の高麗軍と元軍による侵攻に「元寇」という名称を使う中学校教科書は減ってきている。元寇という言葉自体が、幕末に作られた言葉であるということが理由の一つであり、「モンゴル襲来(蒙古襲来)」という言い方の方が正しいとされてきているからだ。昭和の教科書では「元寇」という見出しで解説されているが、平成の教科書では「蒙古襲来」とされている。
  さらに、高麗(こうらい・こりょ)の軍が加わっていたことを明らかにする傾向にある。じっさいに当時の人や後世では、「むくり(蒙古)こくり(高麗)がやってきた」と言われてきたことが事実であるからだ(室町末期の『醒睡笑』という笑話集にも出てくる)。

 また、「倭寇」という貿易集団についての研究が進んでいる。もともと倭寇とは朝鮮や中国側の呼び方である。「犯人」とされている私たち日本人の側からはそういった言葉は使われたことはなかった。もともと倭寇は前期(14世紀後半から15世紀)と後期(16世紀)に分けられる。前期は日本人が中心だったが、後期については中国人がそれに代わるといった理解がされてきた。
  後期倭寇が現れたのは室町幕府がおこなった勘合貿易(日本と明との間の公認貿易)が途絶したことが直接の理由である。これによって舟山群島の国家の管理を受けない中国人密貿易商が活動し始めた。彼らは日本人の風俗を真似て、あたかも日本人であるかのように行動した。こうした解釈がこれまでされてきた。そのことについては、ほとんど異論がない。
  ところが、日本人の仕業とされてきた前期倭寇についても、平成の初めころから疑問が持ちだされるようになった。実は高麗・朝鮮人だったというのである。
  この前期倭寇は1350年以降に現れる。高麗の各地を襲い、米や人を略奪した。この武装集団の規模はとても大きく、船団数百隻で、騎馬隊も持ち、数千人だったという。これが事実であるなら、これだけの兵力・装備を日本で用意し、玄界灘、対馬海峡の荒波をこえて侵攻する大勢力が九州のどこかになくてはならない。そうしたことは当時のわが国の状況では考えにくい。
  また、当時の高麗王朝の記録などによれば、「倭寇」のうち、ほんとうの日本人とされるのは全体の1〜2割にしかすぎないという説もある。その根拠地も対馬や済州島ではないかとされるようになった。とりわけ倭人と済州人の生活形態が似ていることも指摘されている。
  近ごろの研究では、こうした日本・朝鮮・中国の支配権のあいまいな所で暮らす人々を「境界人=マージナル・マン」として認識することになった。あたかも中国や朝鮮への加害者とされてきた倭寇=日本人という図式は成り立たなくなってきたのである。

 朝廷とは天子がいて、そのもとに参集する豪族・貴族が存在する場所である。朝早くから会議が開かれたからというのが言葉の起こりで、古墳時代の4世紀中ごろから大和地方には朝廷があったとされてきた。現行の中学校学習指導要領(平成23年度以降)でも以前からの解釈が続けられて『国家が形成されていく過程のあらましを、東アジアとのかかわり、古墳の広まり、大和朝廷による統一を通して理解させる』とされている。具体的には4世紀から6世紀後半にいたるまでの大和地方、とりわけ奈良盆地を中心とする政治権力を「大和朝廷」という言葉で表すのはふつうである。
  ところが、最近では天皇を中心にした国家が完全には成立していない時代に、天皇がいてこその「朝廷」という言葉は使えないという解釈が力を得てきている。そこで大方の研究者や教科書では、あえて大和政権という言い方が使われるようになってきた。同じように、国家の形成過程に誤解を与えるということから高校や大学入試でも「大和朝廷」と答えさせるような設問はしないようになった。文科省の「学習指導要領」の改訂より、現場の教科書の変更の方が早いという一例である。
  また、この大和という地名だが、初めて現れるのは8世紀後半の「養老律令」による行政区画名である。それ以前は、「倭」もしくは「大倭」という地名が使われていた。そして、この大和と4〜5世紀の政治権力のあった中心地域が必ずしも重ならない。そうしたことから最近では「ヤマト政権」や「ヤマト王権」とカタカナ表記することが一般的になってきてしまった。

 近世の農民の実態の描かれ方も変わってきている。農業史の研究者によれば、江戸中期以降のコメの生産額はおよそ全国で3000万石である。人口も推計だが約3000万人である。当時の人はおよそ年間に1人あたり1石(150キロ)のコメを消費していた。
  そこで、全人口の数パーセントにしかならない武士や支配階層だけが存分に米食をし、農民その他が雑穀ばかりを食べていたというのはおかしいではないか。いわゆる「貧農史観」を見直そうという考え方が平成の初めごろから起こってきた。
  贅沢な武士や豪商と、貧困にあえぐ搾取されるばかりの農民??こういった単純な見方は、階級闘争史観に裏づけられた偏見ではないかというのだ。
  そこで検討されたのが、教科書にはほとんど載っていた「慶安の御触書」である。農民が虐げられ、支配階級の武士とそれに結託した商人たちが贅沢をし、明治維新を迎えるといった構図で近世史を描くには最適であると、いまも一部の人たちには人気のある史料である。
  ところが、「慶安」に出されたとされるこの史料の現物がない。幕府の基本法令集には存在していなかったのだ。しかも、この触書が出されたとされる慶安より、ずっとあとの1697(元禄10)年に当時の甲府藩によって制定されたものであることがわかった。そしてその元となったのは1665(寛文2)年にふれ出された「百姓身持之覚書」である。問題はさらにあった。その「覚書」の内容は百姓が守るべきことではなく、百姓に支配される「下人」に対してのものだったのである。
「慶安の御触書」が現れるのは、美濃国岩村藩(岐阜県恵那市)の出版書が初めてである。しかも時代は幕末に近い1830(文政13)年のことだった。この本が東日本を中心に広まったのは天保期である。この時代はといえば大規模な飢饉が起こったころだった。社会は混乱し、民心は動揺する時代。対処法に苦しんだ藩主たちが採用したというのが本当のところだろう。出版したのは幕府儒官であり、幕府学問所総裁をつとめた林述斎だったことも触書の権威を高めていた。述斎はもともと美濃岩村家の出身であり、当時の若い藩主の後見をする立場だったのだ。その述斎が岩村藩の書庫で発見したものという。

 時代区分も学界と教科書では違っている

 時代区分も、学界と教科書では大きな違いがある。学界では「中世」の終わりに含めるのは戦国時代までである。
  織田政権を戦国時代最後の存在として「中世」と見る考え方と、「近世」の始まりとする見方があるが、戦国期の研究者は中世史研究者の方の数が多いため、「中世」となる。確実に「近世」とされるのは豊臣政権からである。
  ところで、中学校の教科書は日本史教科書ではない。「歴史」教科書である。そのため省略もしているが、世界史の記述も含まれている。手元の日本文教出版教科書の表紙には、『中学社会・歴史的分野』と書かれている。著作者の顔ぶれを見ても日本史学者ばかりではない。西洋史学者、アジア史、北・南米史、エジプトをはじめとする中近東史の学者もいる。
  そうなると世界史の定説が採用される。わが国では江戸時代からとされる「近世」の始まりは、中学教科書では「大航海時代」からになる。
  大航海時代とは、それまで文化的には後進地域だったヨーロッパが、それぞれ独自の発展を続けてきた世界の諸地域を結びつけた時代である。バスコ・ダ・ガマの喜望峰回りのインド航路開発。コロンブスはアメリカ大陸へ。マゼランはホーン岬を回って太平洋横断をなしとげ、ほぼ世界一周を達成する。
  このために中学校の歴史教科書では、「近世」の始まりを大航海時代からとする。その影響のもとに鉄砲とキリスト教が日本に伝来し、それが戦国時代に変化をもたらし、織田・豊臣政権という統一政権をもたらした。そういう流れの記述になる。
  中学教科書の記述を引用する。『第4編 近世の日本』とあり、『近世の日本は、戦国の騒乱をへて、武士が政治を担い、戦乱のない社会がつくられていきました。ちょうどそのころ、ヨーロッパ人が日本にやってきました。ヨーロッパ人の来航は、当時の日本にどのような影響をあたえたのでしょうか』(日本文教出版)
「近世」と「近代」の区分も同様に異なる。学界では、江戸幕府崩壊までは「近世」にふくめる。しかし、中学教科書は、アメリカ独立やフランス革命から書き起こし、産業革命、アジア侵略とヨーロッパの動向を説明している。その後のペリーの浦賀来航から「近代」を始める。明治維新期を1853年から西南戦争の終結の1877年までと見るのがふつうになっている。
「近代」と「現代」の違いはどうか? 学界では大東亜戦争の敗北が「現代」の始まりとなるが、中学教科書は第一次大戦からが「現代」になっている。それまでの国家同士の戦争が、世界中に広がっていることを重視しているからである。時代区分はこのように何を重視するかで決まる。

 教科書は薄く、安価に仕上げなければならない

 良くない喩えとして、「教科書的な記述だ」などといわれることがある。無味乾燥で、紋切り型の、つまらない、堅苦しい文章の代表のように評価されている。事情を知るといささか執筆者たちに気の毒な気もする。わが国の歴史教科書の問題点は、何よりもページ数に限りがあるからだ。
  昔、手に取ったフランスの小学生用の教科書には、日露戦争で使われた両軍の小銃が図解されて載っていた。フランスの小学生が、はるか極東の戦場で使われた兵器を知ることにどんな意味があるのかと尋ねたところ、フランスの先生は、「どんな興味にも対応できること、それが教科書だ」と答えてくれた。
  それに比べると、わが国の教科書は、「最低限の知識、それを公平に与える」という思想に裏づけられている。おかげで、教科書は薄くなり、執筆者たちは「てにおは」にまで気を使う。限られた字数の中で、現状でいかに正確な情報を届けるか、そこに苦心する。教科書がつまらないのは、薄く、安く、仕上げなければならないからと言っていい。

 あなたが習った「非科学的な歴史教育」

 子供たちの興味・関心は狭くてもいい、そう考えている大人も多い。
  たとえば、子供は兵器に関心を持つのがふつうである。戦車や戦闘機、軍艦などが好きな子供は意外に多い。東京大空襲や、長崎・広島の原爆投下を聞けば、B29爆撃機とはどんな大きさで、どんな性能かを知りたがるし、迎え撃った日本の戦闘機を見たがる。でも、ふつうの授業では、そういう興味や関心は無視されている。
  それどころか、「人殺しの道具なんか知らなくていい」とされることがほとんどだろうし、先生も詳しくは知らない。「戦争はとにかくいけないことだと教えればいい」。それが教育現場の実態の一つである。
  そんな風潮もあって、少し前までは「非科学的な歴史教育」が平然とおこなわれていた。かたよった資料をもとに、公然と「学習指導要領」を軽視した授業がおこなわれ、東西冷戦が崩壊する前は、日本を悪玉にする教育も、良い授業とされていた。
  戦場で用いる兵器としては非実用的だった日本刀で、ヒトを百人も斬り殺すといった、実証主義からはほど遠い教育もなされていた。日本刀の構造をきちんと調べれば、そんなことができるはずはない。それどころか、戦国時代の実戦の様相を調べれば、刀の役割など「首取り」、もしくは、やむを得ない白兵戦でしか使われなかったことがわかる。近代の陸軍だって、兵器としての有能性など考えてもいなかった。
  機関銃についても同様である。日本陸軍の重機関銃は高価な装備品であり、その弾薬は小銃や軽機関銃のものとは違う。機関銃はしばらく使えば、銃身内部が摩耗して、高価な替え銃身を用意しなければならなかった。また、弾薬箱は540発入りで、1箱40キロほどもあり、馬1頭に4箱(歩兵用)積んで運んだ。そんな機関銃を主な道具にして、捕虜や民間人を何万人も殺せるものだろうか。弾薬補給の実態を調べればすぐに不可能とわかるはずだ。
  同様に軍隊の制度や仕組みについても調べることはしなかった。正規の軍隊が、関東大震災のときに同国人である半島からの移住者を指揮官の命令で虐殺したなどという。そうしたことは近代国民軍だった日本軍にはあり得ない。最近も、ある市の教育委員会で、根拠もはっきりしない、でたらめを書いた副読本を中学生に配布しようとした。
  まだまだ、そうした勢力が残る一方、多くの研究者は努力している。教科書の改善ということでは、大御所たちが力を持っている日本史の学界よりも、世界史の学界は比較的自由であるため、改善しやすい。中学校「歴史」教科書の記述は、たいていの高校「日本史」教科書よりも進んでいることが多い。

 高校では山川出版社の歴史教科書が今も昔も採用の主流だから、昭和と平成の記述の違いを見るには、同社の「日本史教科書」がもっともふさわしい。本書は、昭和41年発行の「詳説日本史」(以下、昭和の教科書)と、平成24年発行の「詳説日本史(改訂版)」(以下、平成の教科書)の比較を中心とするが、ときには中学校教科書も説明に加えることにする。
  なお、引用や参照した資料、著作などは記述の中には入れないことにする。まとめて巻末に記載することにしたい。



目 次

はじめに 2
  教科書は変わってゆく 4
  時代区分も学界と教科書では違っている 9
  教科書は薄く、安価に仕上げなければならない 11
  あなたが習った「非科学的な歴史教育」12

第1部 原始・古代 19
1 人類の出現が400万年も繰り上がった 19
2 書き換えられた縄文時代 24
3 邪馬台国は「邪馬壹国」だった? 28
4 仁徳天皇陵ではなくなった前方後円墳 30
5 教科書から消えた「大和朝廷」33
6 聖徳太子の肖像画も消えた 39
7 最古の貨幣は「和同開珎」ではなかった 44
8 律令国家に抵抗した東北の人びと 49

第2部 中世 57
9 鎌倉幕府の成立は「イイクニ」ではない 57
10 源頼朝の肖像画が教科書から消えた 64
11 元軍の撤退は2度の「神風」か? 72
12 教科書から消えた「足利尊氏」像 79
13 倭冦は日本の海賊ではなかった 83
14 武田の騎馬隊も信長の三段撃ちもなかった 91
第3部 近世 103
15「慶安の御触書」はでっちあげだった 103
16「士農工商」という言葉が消えた 111
17「鎖国」という言葉はもはや死語 115
18 田沼意次の財政手腕が見直されている 122
19 銀座は江戸だけにあったのではない 130

第4部 近代・現代 136
20 ペリーの目的は「開国」ではなかった 136
21 倒幕の「密勅」は偽物だった! 142
22 幕府軍はなぜ戊辰戦争に敗れたか? 151
23「国民はみな兵隊になった」は大間違い 162
24 北海道開拓は屯田兵ばかりではなかった 169
25 再評価された岩倉使節団 176
26 西南戦争でなぜ官軍は勝てたのか? 182
27 日清戦争のきっかけは「東学党の乱」? 193
28 日露戦争は何をもたらしたのか? 199
29 満洲事変とはなんだったのか? 204
30 日本軍もよく戦ったノモンハン事件 215
31 ハル=ノートは誤訳だったのか? 225
32 日本は「無条件降伏」していなかった 234

おわりに 242
参考・引用文献 245

 

おわりに

 先日、テレビニュースを見ていたらアナウンサーが語っていた。
「戦国絵巻さながらの神旗争奪戦が……」競馬場で開かれた相馬野馬追の映像だった。あの武者のようないでたちをした男性を乗せた馬たちの疾走を見て、戦国時代の合戦を想像したりしてはいけない。
  まず、馬は馬体の大きい西洋馬である。乗馬者は鎧をまとってはいるものの兜も面頬も着けていない。鎧の下には鎖の着込みや、腿には行縢を着けてさえいない。もちろん手鑓を抱えてもいないし、太刀も佩いていない。だいいち、当時の軍馬が疾走するのは逃げる時か、追撃する時くらいである。また、騎馬武者には必ず徒歩の取り巻きがいて、馬の口取りだって従っているはずだ。
  細かいことを言っていたらきりがないが、テレビや映画が描く昔の様子はたいていがウソである。同じように、ウソとまでは言わないが、学校で使う歴史教科書だって「間違い」が多いのは事実である。それが証拠には、30年もたったらずいぶん書き方が変わっている。
  この書き換えの裏には2つの事情がある。
  1つはまったくの新発見がされて、いろいろな面で過去の書き方では不正確になってきたものである。このことは、本文にも書いたが、有名な「慶安の御触書」がその例にあたる。江戸初期の年号である「慶安」を誰が頭につけたのか、それはわからないが、初めて出版されたのは幕末である。新しい事実が見つかって書き換えがされている。
  こうした事例は過去の考古学の領域や、中世までの領域に多い。考古学も新しい科学の進歩でさまざまな新発見がされている。
  また、江戸時代の身分制度の特徴を表しているとされてきた「士農工商」という序列をつけた言い方もなくなってきている。これも明治維新以来の、時の文教政策で、ありもしなかったことが書かれた結果と最近では受け止められている。
  もう1つは、こちらの方がより深刻なことだが、ある特定の史観によって書かれたことがはっきりしている場合である。とりわけ、近代史や現代史にはそうした記述が多い。それが大東亜戦争後の敗戦から70年近くなり、少しずつ旧い勢力が力を失い、史料や事実の見直しが始まってきている。
  たとえば、本文の最後に紹介した、有名な「ポツダム宣言」である。私たちは、日本帝国が「無条件で降伏した」と思わされてきた。だから、さまざまな戦後の状況についても、「負けたんだし、それを認めたのだから仕方がない」と受け止めてきた。
  それは教科書に載る史料にそう書かれているし、記述も詳しいことを省いている。「無条件降伏」ということを、とにかく負けたのだし、相手に何をされても仕方がないのだと諦めさせるねらいがあったと勘ぐられても仕方がない。
  ある特定の立場に立った見方や、意図的に事実を曲げた書き方で教科書は書かれることも多い。ポツダム宣言の原文を読めば、そこには「日本の武装組織の無条件降伏」という文言はあるが、ほかにどこにも国家全体の無条件降伏とは書かれていないのだ。これは意図的に訳文をねじ曲げた一例である。
  若いころに他校の授業を見に行ったことがあった。授業後の研究会で、社会科研究会の主流だった教師が「江戸時代なんて、支配階級が農民をしぼりあげていた。そのことを子供たちにしっかり教え込めばいいんだ」と言い放った。これにはすっかり驚かされた。階級闘争史観である。当時は、こうした粗雑な思考の先生たちが、使いやすい、わかりやすいという観点で教科書を選んでいたのだった。
  今も新しい発見や、主張が出され続けている。教科書は絶対のものではなく、いつまでも書き換えられていくものである。

 

参考・引用文献

高校教科書『詳説日本史』(昭和41年版)山川出版社
高校教科書『詳説日本史 改訂版』(平成24年版)山川出版社
中学校教科書『新しい社会 歴史』(昭和47年版)東京書籍
中学校教科書『新しい社会 歴史』(平成18年版)東京書籍
中学校教科書『歴史的分野』(平成23年版)日本文教出版
中学校教科書『新しい歴史教科書』(平成13年版)扶桑社
山本博文ほか『こんなに変わった歴史教科書』東京書籍 二〇〇八年

原始・古代
三井 誠『人類進化の700万年』講談社現代新書、二〇〇五年
松本武彦『全集 日本の歴史1 列島創世記』小学館、二〇〇七年
白石太一郎編『日本の時代史1 倭国誕生』吉川弘文館、二〇〇二年
外池 昇『天皇陵の近代史』吉川弘文館、二〇〇〇年
森 公章『日本の時代史3 倭国から日本へ』吉川弘文館、二〇〇二年
新川登亀男『聖徳太子の歴史学 記憶と創造の一四〇〇年』講談社、二〇〇七年
高橋 崇『蝦夷』中公新書、一九八六年
熊谷公男『古代の蝦夷と城柵』吉川弘文館、二〇〇四年

中世
石井 進『日本の歴史7 鎌倉幕府』中央公論社、一九六五年
川合 康『鎌倉幕府成立史の研究』校倉書房、二〇〇四年
川合 康『源平合戦の虚像を剥ぐ?治承・寿永内乱史研究』講談社選書メチエ、一九九六年
宮島新一『肖像画の視線?源頼朝から浮世絵まで』吉川弘文館、一九九六年
佐多芳彦『伝・頼朝像論?肖像画と像主比定をめぐって』「日本歴史」700号、吉川弘文館、二〇〇六年
海津一郎『蒙古襲来 対外戦争の社会史』吉川弘文館、一九九八年
網野善彦『日本の歴史10 蒙古襲来 上下巻』小学館、一九七四年
関 幸彦『神風の武士像 蒙古合戦の真実』吉川弘文館、二〇〇一年
藤本正行『守屋家本武装騎馬画像再論』「史学」五三巻四号、慶応義塾大学、一九八四年
村井章介『中世倭人伝』岩波新書、一九九三年
藤本正行『鎧をまとう人びと』吉川弘文館、二〇〇〇年
宮島新一『長谷川等伯』ミネルヴァ書房、二〇〇三年

近世・江戸
鈴木眞哉『鉄砲と日本人』洋泉社、一九九七年
鈴木眞哉『鉄砲隊と騎馬軍団 真説・長篠合戦』洋泉社新書、二〇〇三年
野口武彦『鳥羽伏見の戦い?幕府の命運を決した四日間』中公新書、二〇一〇年
藤本正行『信長の戦国軍事学』洋泉社、一九九七年
桑田忠親『日本の合戦(五)織田信長』人物往来社、一九六五年
西股総生『戦国の軍隊 現代軍事学から見た戦国大名の軍勢』学研、二〇一二年
斎藤洋一・大石慎三郎『身分差別社会の真実』講談社現代新書、一九九五年
深谷克己『江戸時代の身分願望』吉川弘文館、二〇〇六年
山本英二『慶安の触書は出されたか』山川出版社、二〇〇二年
山本博文『鎖国と海禁の時代』校倉書房、一九九五年
笠谷和比古『関ヶ原合戦と大坂の陣』吉川弘文館、二〇〇七年
田谷博吉『近世銀座の研究』吉川弘文館、一九六三年
佐藤常雄『品種改良と奇品』朝日百科日本の歴史8 近世U、朝日新聞社、一九八九年
佐藤常雄『貧農史観を見直す』講談社現代新書、一九九五年
藤田 覚『田沼意次』ミネルヴァ書房、二〇〇七年
藤田 覚『近世後期政治史と対外関係』東京大学出版会、二〇〇五年
加藤祐三『黒船前後の世界』岩波書店、一九八五年
三谷 博『ペリー来航』吉川弘文館、二〇〇三年
井上 勲編『日本の時代史20 開国と幕末の動乱』吉川弘文館、二〇〇四年

近代・現代
保谷 徹『戦争の日本史18 戊辰戦争』吉川弘文館、二〇〇七年
菊池勇夫編『日本の時代史19 蝦夷島と北方世界』吉川弘文館、二〇〇三年
山崎渾子『岩倉使節団と信仰の自由』(松尾正人編『日本の時代史21明治維新と文明開化』吉川弘文館、二〇〇四年)
菅野覚明『武士道の逆襲』講談社現代新書、二〇〇四年
姜 在彦「甲午農民戦争」『岩波講座世界歴史22』岩波書店、一九六九年
加藤陽子『戦争の日本近現代史』講談社現代新書、二〇〇二年
江藤 淳『忘れたことと忘れさせられたこと』文藝春秋文春文庫、一九九六年
石川明人『戦争は人間的な営みである?戦争文化私論』並木書房、二〇一三年

荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。2000年から横浜市主任児童委員に委嘱される。2001年に陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか−安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる−学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『子どもに嫌われる先生』『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊−自衛隊は、なぜ頑張れたか?』(並木書房)がある。