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目次

第一章 桜井の別れ 7
第二章 南朝樹立 26
第三章 伏竜の宿 61
第四章 巨星堕つ 83
第五章 新星立つ 92
第六章 初 陣 103
第七章 淫 獣 156
第八章 運命の人 177
第九章 南朝分裂 202
第十章 清 恋 229
第十一章 南朝の麒麟児 247
第十二章 軍師正行 299
第十三章 四条畷の戦い 316

 


第一章 桜井の別れ

 河内国水分の館。
剣術の稽古を終えたばかりの少年が汲み上げた釣瓶桶を両手でかざし、気持ちよさそうに水をかぶっていた。初夏の日射しが少年を包み込んでいる。
水浴びを繰り返していたこの少年こそ多聞丸。のちに小楠公(楠木正行)と呼ばれ、後醍醐帝を擁して南朝を樹立し、南朝五十年の礎を築くことになる。足利尊氏をして、時には恋焦がれさせ、また震え上がらせた人物であると語りつがれている。
この時、まだ十三才。
「聞多(多聞丸)兄ちゃん、剣術の稽古は終わったの」
使いを終えて帰って来た少女が足を止め、背後から声をかけた。
「奈々か」
「おばさまに、お使いを頼まれたの」
「そうか、母上にお願いして手拭いと着替えを持ってきてくれ」
「うん、わかった」
少女は散所(浮遊民・その居住地)の長、喜蔵の長女であった。時々喜蔵に連れられて水分の館を訪れてきて、多聞丸の母、久子の身のまわりの世話を手伝っている。
「お兄ちゃん、これから馬乗りの稽古をするの」
「ああ、少し休んでからな」
「私も一緒に連れてって。滝谷不動さんまで行ってみたい」
「いいぞ」
「うれしい。着替え持ってくるから、ちょっと待ってて」
少女ははじけるような笑顔を残して館の方へ消えた。だが、着替えを手に戻ってくると真顔で久子の言葉を伝えた。
「おばさまが着替え終わったら来るようにって。何かお話がありそう」

(中略)

 久子が多聞丸を呼んだのは、まさに勅命に従って正成が出陣仕度をしている最中であった。
廊下の障子が開き、明るい夏の日射しと共に一人の若者の影が現れた。
「母上、御用とのことで参りました」
「呼んだのは、ほかでもありませぬが、そなたの初陣のことです」
「はい」
「この間も申しましたが、そなたには父上御不在の間、弟たちの面倒をみてもらわねばなりませんし、この城を守ってもらわねばなりませぬ。そなたの初陣については父上もよくお考えのことです」
「それは……」
「沙汰がないのは、このたびの戦はそなたを連れて行くに相応しくないと判断されたからです。そなたの心意気は父も母もうれしく思いますが、このことをよく聞き分けて下され」
「母上、私は初陣のことより、早く父上のお役に立ちたいのです」
「そなたの気持ちは、よくわかっております」
「先に佐々目弾正憲法を父上が飯盛山に伐たれた時には、私が戦場へ行くことを母上はお許しにならなかった」
「あの時は、父上からも厳しく止められておりました」
「私も心ばかりが逸ったのでは、かえって父上の足手まといになりかねないと思い、自重いたしました」
久子は黙したまま軽くうなずいた。
「いま、和尚様から『四恩』について学んでおりますが、それには深甚なる父母の恩の深さが説かれております」
多聞丸は言い募る。
「ましてやこのたびの戦は尋常でないと聞き及びます。そのような時に、子である私が恩返しせずに、いつ恩返しができるのでしょうか」
四恩の話を持ち出され、久子は逆に諭されているかのようだった。
「そなたは、このたびのことをそこまで考えておられるか。母として申すべきことはすべて話しました。後はそなたより直に父上へ申し上げてみなさい」
親の贔屓目を度外視しても立派に育ってくれたものだと、うれしく、目頭が熱くなるのを覚えた。
多聞丸は母のもとを辞すと、その足で竜泉寺の叔父正季の館へ向かった。

 竜泉寺では、正季の長子行忠が出迎えた。多聞丸より一才年下の従弟である。
「父上、多聞丸様が参られました」
正季はこのたび出陣する兵の名簿を点検しているところであった。
「そうか、こちらへお通ししなさい」
多聞丸の額からは汗が滴り落ちている。それを拭おうともしなかった。
「叔父上、このたびは足利尊氏討伐に出陣されるとのことでありますが、是非とも初陣いたしたく思います。つきましては、このことを父へひと言お頼みしていただこうとまかりこしました」
正季も彼の初陣については常日頃から機会あるごとに「そろそろ多聞丸を元服させ初陣させてもよろしいのでは」と兄へ具申してきたが、なぜか正成は、「そのうちにな」と笑って応えるばかりであった。
正季の方も、兄には深い考えがあってのことと思いそれ以上は追求しなかった。
「そなたの初陣については以前より折に触れ、兄上にお願いしてある。兄上とてそのことはよう考えておられよう」
「はい」
「このたびの戦が容易ならぬものと、そなたも承知しておるゆえ、逸る気持ちはこの叔父にもようわかる。が、まずはそなたから父君に許しを請いなされ」
「わかりました」
「仮に聞き入れて下さらぬ時には、致し方あるまい。わしが桜井ノ駅まで連れて行って進ぜよう」
「御配慮かたじけなく存じます。ただこのことは母上も反対しております」
「そうか、義姉上にはわしの方から頼んでみよう」
「ありがとうございます。おかげで胸のつかえが取れて軽くなりました」
多聞丸は、ほっとひと息ついた。
「楠木家の惣領として恥ずかしくないよう、少しでも父上、叔父上のお役に立てるよう働く所存でございます」
正季は、あの父にしてこの子ありと、楠木一族の要となるべく若い芽がすくすく育っていることに安堵した。

吉川佐賢(よしかわ・さけん)
1946年、三重県安濃郡に生まれる。三重県立津高校卒業後、防衛大学校に入学。同研究科にて電子工学(電子計算)を学ぶ。同校卒業後、防衛庁技術本部、陸上自衛隊通信学校で、主に通信装備の研究開発に従事。2001年二等陸佐で退官。2005年『楠木正成 夢の花(上下)』を発表。