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目 次

1、耳に残る亡父の朗吟  5
2、フィッシャー先生の思い出  19
3、土屋清と社会思想研究会  29
4、伊藤正徳と長谷川才次  41
5、忘れ得ぬ関・森嶋の防衛論争  53
6、最も実りが多かった沖縄時代  65
7、「琉球独立論」をめぐって  77
8、間近に見たニクソン大統領  97
9、輝ける英紙記者ブランドン  109
10、「ニューズ戦争」の中の外信部長  127
11、世界の中の「日本」を主張する  136
12、日米間初の民間安保シンポジウム  149
13、みっちり勉強できたウイルソン研究所時代  169
14、「吉田ドクトリン」への反撃  185
15、台湾独立にかける人々  213
16、教えることの難しさ、楽しさ  226
17、五回の癌手術を乗り越えて  249
あとがき あとがき


 旧友である潮匡人氏から、財団法人防衛弘済会発行の防衛情報誌「日本の風」に連載ものを書いてほしいと依頼されたのは三年ほど前だったろうか。若い時代から現在までの人との触れ合いを中心に、「わが師 わが友 わが後輩」といった題ではどうかというのが潮編集長の要望だった。年に四回発行の季刊誌だから、四百字で十五枚程度のものなら軽い気持ちで書くかと引き受けた。

 ところが、過去に遡れば遡るほど正確な年月日、人名、その他固有名詞などの事実を確認する作業が容易でないことがわかった。三カ月先の締め切り日を前に書斎のあちこちを引っ掻き回し、親戚、先輩、友人に電話を掛けまくるなど、もっぱら事実関係を確かめるのに時間を費やした。書く時間の方がはるかに短かったと思う。

 ようやく要領がわかってきて、六回目の「最も実りが多かった沖縄時代」の原稿を送ったあと編集部から手紙が来て、「日本の風」は廃刊になったという。当時防衛施設庁のスキャンダルが大きな問題となり、雑誌発行も契約をいったん白紙に戻し、民間の出版社の入札により発行元を決めることになったらしい。残念な気がしたが、仕事が減って半ばほっとしたのも事実だった。

 そんなところに奈須田さんから「連載の続きはどうなったか」との問い合わせがあり、さらに御子息の若仁・並木書房社長からも一冊にまとめてはどうかとのお勧めを受けた。御両人の御好意に甘えて残りは二、三カ月の間に一気に仕上げてしまった。

「自伝」でもないし、さりとて「交友録」とも言えない中途半端な文章を書いたのは私自身の曖昧な人生に原因があるのかもしれない。ジャーナリストの中では何となく教師風を装い、教師の間ではジャーナリスト的な言動をしてしまう。どちらも大成していないが、私自身はそれで満足している。
 意図的に取り上げなかった問題は少なくない。一つの例は九七年に設立された「新しい歴史教科書をつくる会」だ。初代会長の西尾幹二氏の要請で私は十年ほどこの会の理事を務めた。病気の時期と重なったので十分な役目は果たせなかったが、会の運営上生まれた危機的な局面は何度も目撃した。個性豊かな人々の集まりであるから鋭い意見の対立は当然だが、言論人にはやっていいことと悪いことの区別はあるはずだ。現段階で私はこれ以上の論評を控えることにした。

「つくる会」には運動家が必要だと考えてきた。私が接触してきた人々の中でプロの運動家と言えるのは沖縄返還や北方領土返還運動に挺身した末次一郎氏だった。氏については「新潮45」二〇〇一年九月号に「『最後の国士』末次一郎の遺言」で書きつくしたので本書では触れない。

 気懸りなのはお世話になった数多くの方々を網羅できなかったことだ。改めて「交友録」を書く機会が与えられればと願っている。


田久保忠衛(たくぼ・ただえ)
杏林大学客員教授。1933(昭和8)年千葉県生まれ。早稲田大学法学部卒業後、1956年時事通信社に入社。ハンブルク特派員、那覇支局長、ワシントン支局長、外信部長などを務める。1984年から杏林大学社会科学部(現、総合政策学部)で教鞭をとり、1992年より学部長を務め、2003年より現職。1993年に博士号取得。96年には第12回正論大賞受賞。専門は国際政治、外交評論。著書は『アメリカの戦争』『戦略家ニクソン─政治家の人間的考察』『新しい日米同盟』など多数。