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 プロローグ 

子供の頃は海が怖かった。理由は分からない。多分、海水浴に行った時に、溺れそうになったのが原因だろうと、親たちは解釈していた。この謎の恐怖心は何に起因しているのか、その原因を知ることになったのは、三十才を過ぎてからだった。
 普段、決して近寄ることのない、お台場の「船の科学館」で、ごく少人数の集まりの司会をするために、私は朝早く家を出た。声が大きいだけが取り柄だった私に、祖母と塾の先生が、アナウンサーを目指すことを勧めたというだけで、その道を目指し、また、中学生の時に観たハリウッド映画がきっかけで、アナウンサーの中でも自分で原稿も書けるニュースキャスターになりたい、と憧れを持つようになった私は、この頃、どうにかこうにかして自分の目指したものに近づこうとしていた。
 放送局には所属しないフリーという立場で、自分の望みが叶うのは、稀にみる幸せ者で、だいたいの人は生活のために仕事をするものだが、私の場合は違って、三十才からは、わが道に合わないものは引き受けないことにした。
「信じられない」と、よく言われるが、それでもなんとか生活することが可能だった。おそらくこれは、私がかなり運の良い人間であるからだ。仕事がなくなるかと思うと、新しい仕事が入り、素晴らしい人々との出会いに恵まれる。なのに、仕事が順調な時に欲を出すと、ちっとも上手くいかない。まるで、何者かに生かされているのではないか、という運の起伏の中で毎日を過ごしていた。
 そんな折、驚くほど運の良い船があるという話を聞いて、興味を持った。それは「宗谷」という、南極観測に初めて行った船だ。映画「南極物語」では、天候不良でやむを得ず南極に置いて帰ってきてしまったカラフト犬のタロとジロが、一年後に再び戻ってみると、奇跡的に生きていたという、あの感動的シーンを覚えている人も多いであろう。
 実は、「宗谷」という船は、「南極観測船」として世に知られてはいるものの、それ以前にもこの国に多大な貢献をした船で、生まれた時から類い稀な強運の下、その運命航路を辿り、大東亜戦争では、度重なる戦火に遭遇しながらも、日本の海軍艦艇で唯一、今もその姿を海に浮かべている船だという。
 仕事先で知り合った山田健雄さんのおかげで、私はそれを知ることができた。
「山田さんのお父上は『宗谷』の初代艦長さんだったそうですね」
 誰かがそう話しかけていたので、てっきり最初に南極観測に出かけた人なのか、と早合点していたら、それは戦前のことだと後で分かった。
 そもそも山田さんは、元航空自衛官で、平成元年十二月に、二等空佐で定年退職している。経歴から計算すれば分かるようなものだが、算数がめっぽう苦手な私には、山田さんの父上が、旧帝国海軍軍人だったということを知るまでに時間がかかってしまった。
「お父様が『宗谷』に乗っていらっしゃったのは、いつ頃だったのですか」
「昭和十五年からです」
 なるほど、「宗谷」が南極観測に出発したのは、昭和三十一年。それよりも十五年以上前に、「宗谷」はすでに海軍の艦艇として存在し、大海原を駆けていたのだ。しかし、その事実を多くの人は知らない。なぜだろう。ここにも「戦前」否定の空気があるのだろうか。
 かねてより私は、現代の価値観で、過去の歩んできた歴史を評価しがちな今の風潮に疑問を抱いていた。その「過去否定」の流れで、秘密にしているわけではないにしても、「軍艦宗谷」についての話題があまり語られず、戦後の南極観測船としての功績だけが評価されるのだとしたら、せっかくそれまで残してきた「宗谷」の歴史に申し訳ないと同時に、なんとも残念なことだと思った。
 私は「宗谷」の怏゚去揩どうしても知りたい、という気持ちが高まり、山田さんの紹介で海軍時代の「宗谷」乗組員の方とお会いし、連絡をとるようになっていった。
 東京・お台場の「船の科学館」に「宗谷」は係留されている。大東亜戦争に参加した日本の海軍艦艇で、今なお海に浮かんでいるのは「宗谷」だけである。ここで毎年、海軍時代の「宗谷」乗組員が集まり、「軍艦宗谷会」が行われているということで、私は早速、その仲間に加えてもらいたくなった。
「宗谷」が海軍の艦艇として船出したのが、昭和十五年六月四日だったことに因み、六月最初の日曜日と決まっているこの会合。元乗組員やその家族を中心に、年に一度の「宗谷」との対面ということで、集まっているが、もはやその多くが故人となっていた。当時、まだ若かった乗組員でもすでに八十才を越えている。
 長野県佐久市に住む幹事の中澤松太郎さんは、齢八十半ばにして、会合の準備、連絡、受付、進行とあらゆることを引き受け、四苦八苦していた。そこで、何か少しでもお手伝いできればと、私は司会と受付の手伝いを「志願」することにした。「それならぜひ」と、中澤さんは歓迎してくれ、私は喋り手という自分の経験を活かして、「軍艦宗谷」に近づけることになったのだ。
 小雨の降る六月最初の日曜日、お台場には若者がぞろぞろと遊びに来る。彼らにとっては「おじいちゃん」にあたる人たちが、若いカップルなどで混み合った「ゆりかもめ」に乗って来るのは、年に一度とはいえ一苦労だ。
 私だとて、小学生以来、「船の科学館」には足を向けたことがなかった。小学校の社会科見学で訪れた時、海に近づいただけでなんとなく気分が悪くなってしまい、船の中には入らずに、外で休んでいたことを思い出す。思えばあの船が「宗谷」だったのだ。まさかこの年齢になって、その船に向かうことになるとは、思いもよらないことが起きるものである。あんなに苦手だったこの場所に、不得意な早起きをして、「ニュースに専念したい」などと言い訳して、最近は断っていたパーティの司会をするために、私はお台場に向けて電車を乗り継いでいた。
 受付は開会の一時間前に始まる。私は、元乗組員の押尾勝男さんと参加者を待つことになった。「軍艦宗谷会」と書かれた紙を貼った机を、「船の科学館」の方がその入口に設置してくれていて、私と押尾さんがその前に座っていると、「船の科学館」を訪れた一般の家族連れなどが訝しげに見ていく。
 毎回、集まる人数はだいたい三十人前後になるのだが、その中には、毎年必ず参加する人もいれば、これまで一度も来ることができず、何十年ぶりに「宗谷」と対面するという人もいるのだという。
「やっと来ました!」
 そう言って近づいてきた男性が、外の「宗谷」をひと目見ると、たちまち涙ぐんだ。
「ずっと宗谷に会いたかったのですが、仕事を人に任せるわけにもいかなくて……」
 名前を聞いて名簿の住所を見ると、静岡県である。
「最近、体を壊して手術を受けることになったのですが、それを一日延ばしてもらって、ここに来ました」
「宗谷」を愛しそうに見つめている姿を見ると、この小さな船に、どれだけ多くの人の思い出が投影されているのだろうと、「宗谷」の年輪の深さ、存在の大きさを改めて思い知る気がした。
 また、遠方から来る人の中には、「一人では心配」と、子供や孫、兄弟、親戚同伴で来る人も少なくない。その場合、周囲の人が必ずといっていいほど、
「この船があの『宗谷』ですね」
「『宗谷』の話はいつも聞いていました」
 と異口同音に言う。どうやら、「宗谷」にひとたび乗った人は皆、「宗谷」のことを忘れられず、「宗谷」を下りて何十年が過ぎたとて、いまだに「宗谷」に乗り続けている気分なのだ。
 こうして、私は戦前の「宗谷」に関わった人々と交流するようになった。
「軍艦宗谷」は、実に働き者で真面目で、そして凄い強運に守られていたと、多くの関係者が口を揃える。その「実績」があったからこそ、この船が南極観測船に選ばれたのだと分かった。しかし、だからと言って、やはりそれだけでは今の「宗谷」はないのである。
 戦後の荒廃の中、日本の意地をみせて南極観測に躍り出た、そのことがどれほど当時の国民を勇気づけたことだろう。「もはや戦後ではない」と言われた昭和三十年代、経済は復興に向かいつつあったものの、国際社会において日本はまだまだ「敗戦国」の謗りを免れなかった。
 そんな中、欧米列強と肩を並べて「南極観測へ行こう」なんてことは、身分不相応と言わざるを得ない無謀な試みだったのだ。
 だがしかし、日本人が真に立ち直るためにも、馬鹿にされたまま引き下がるわけには、どうしてもいかなかった。大東亜戦争で死力を尽くした日本人の想いが、それを許さなかった。全国からの寄付金、改造工事関係者の不断の努力、そして多くの人々の祖国復興にかける気概が、とうとう戦争で草臥れきっていた「宗谷」を、南極観測に耐え得る船への改造に成功させ、未知の世界である南極に出発させたのだ。それは国民の総意だった。
 こうして「宗谷」は、日本国民と、この船に乗った全ての人々の期待を背負い、六回に渡り、南極観測船としての任務を果たしたのである。「宗谷」は、戦前・戦後と苦労をし、今の繁栄を築いてくれた「日本のお父さん」なのだ。
 その役目が変わるたびに、船体が灰色になったり、オレンジ色になったり、真っ白になったりしたが、そのいずれもが「宗谷」なのであり、どれひとつとして欠かすことのできない「宗谷お父さん」の歴史なのだ。この船が引退後もスクラップされることなく、永久保存されることになったのも、「日本のお父さん」のお手本として、この国が「父親像」を忘れることのないように、という想いからだったのではと、思えてならない。

 悲喜こもごもの中、昭和という激動の荒波を駆け抜けた船「宗谷」が辿った歴史を遡ってみたい。


目 次

プロローグ 1

第1章 「宗谷」はこうして生まれた 13
  廃工場と老守衛 13
  川南豊作という男 18
  ソ連からの発注の謎 22
  ソ連には引き渡さず 27
  松岡洋右と「宗谷」 32

第2章 海軍特務艦「宗谷」 39
  「宗谷」、南の海へ 39
  敵魚雷、「宗谷」に命中す 50
  激闘、トラック島 58

第3章 危険な輸送任務 69
  人は「特攻輸送」と呼んだ 69
  医師としての本分 74
  敵機、横須賀に来襲 77
  そして終戦 81

第4章 引揚船として、再び 86
  「宗谷」に帰ってきた 86
  日章旗、そして軍艦旗なき航海 92
  故国の沖で、力尽く 97
  新たな命、失われた命 101

第5章 命懸けの逃走 107
  誰もいない原生林で 107
  金日成の企み 112
  元山港をめざして 117
  ラジオ屋の主人の好意 121

第6章 海のサンタクロース 126
  喜びも悲しみも幾年月 126
  「汽笛吹けば 霧笛答ふる 別れかな」 133

第7章 「宗谷」南極へ 136
  運命の南極会議 136
  どこに出しても恥ずかしくない船 143
  南極観測船「宗谷」 149
  老兵「宗谷」、最後のご奉公 155

第8章 「宗谷」外伝 164
  豊作が重んじたこと 164
  お国のために戦った人たちを… 169
  ふたりのパイロット 174
  三無事件と自衛隊 178 「宗谷」関連年表 186

 参考文献・資料他 187

 あとがき[新装版] 189

 



新装版あとがき

 

『奇跡の船「宗谷」』を上梓してから五年が過ぎた今、幸運の船と言われ、国とともに歩んできたと言える「宗谷」に大きな危機が訪れている。海の上に浮いているだけに、その保存には相当な経費がかかるのだ。
  メンテナンスは「船の科学館」や、ボランティアの方々などが懸命にあたってくれているが、「宗谷」がここに係留されるようになってからすでに三十年以上、やはり一度ドッグ入りして大掛かりな修理を施す必要があるという。
  翻って言えば、今日まで姿を見せてくれることの方がすごい。「宗谷」の誕生は昭和十三年、南極観測船として大規模改造を施したとはいえ、人間でもこの年齢になったら持病の一つあってもおかしくはない。実際、元気そうに見えるが、見えない部分は錆びているなど傷みも激しい。
  それなのに「宗谷」は、ずっと海の上で雨風をものともせずに、人々に自らの歩んできた昭和史を語り続けている。どうも、このお父さんは、いつまでも現役でいたいと見える。
  しかし、平成二十三年はこれまでにない試練の年となった。東日本大震災、そして相次ぐ余震に台風……、こうした影響で、「船の科学館」の運営元である日本海事科学振興財団を支える競艇事業収入が減少していることや、館内の傷みも激しいことなどから、「船の科学館」は休館、そして「宗谷」とともにここのランドマークとなっていた「羊蹄丸」は手放さざるを得なくなったのだ。
「宗谷」もこのタイミングで、よもやスクラップという話が持ち上がったが、今回「待った」をかけるきっかけとなったのは、意外な人物の登場だった。
「キムタクですよ!」
  あの木村拓哉が? ミッドウェー海戦、魚雷の命中、トラック島の大空襲などなど、数々の危機を潜り抜けてきた「宗谷」であるが、今度の救世主はキムタク?
  実はこのたび、木村拓哉主演のドラマ「南極大陸」がTBS系で放映されることになり、「宗谷」でも収録が行われた。そうしたことなども鑑み、この船に関してはしばらく保存できることになったのだ。
  とはいえ、あくまでも暫定的な決定であり、今後、長期的に保存するための方策があるわけではない。関係者の表情は複雑だ。
  ただ、それにしても、本館も、「羊蹄丸」も見られなくなる中、「宗谷」だけが留まるというのは、まことに運がいいとしか言いようがない。
  この強運の船をアッサリ諦めてしまえば、日本の運もなくなってしまうのではないかという気もしてしまう。
  そんなことを考え、悶々としながら迎えた九月三十日、「船の科学館」が休館となる日、同館を訪れると、平日にもかかわらず多くの人々が駆けつけていた。
  入り口には「ごきげんよう船の科学館」という看板が出ている。「サヨナラ」でも「お別れ」でもない「ごきげんよう」というひと言に、再出発する心意気を込めようと、館長はこの言葉にこだわった。
「ごきげんよう」のセレモニーは、閉館時間が近づく薄暮の中で行われ、三十七年間の無事を感謝する神事が斎行された。「羊蹄丸」では、かつてこの船に乗っていた関係者が集まり、出港の様子を再現。
  隣にいる「宗谷」から「ご安航を祈る」を意味するUW旗が掲げられる。そして「羊蹄丸」は、UW1旗でそれに答礼する。
「当時はとにかく忙しくて、着いたらすぐに出港だったんですよ」
  と、元キャプテン西澤弘二さんがしみじみ回顧しながら解説してくれた。出港直前に、乗客と一緒に悪魔が乗り込まないよう追い払うためだという銅鑼が鳴らされ、いよいよ別れの時となる。
  長い汽笛が鳴り響く中、船内にいる人々から一斉に紙テープが投げられた。青函連絡船華やかなりし頃の光景そのままだった。「宗谷」もよく知っている時代の日本人の姿だ。「蛍の光」が流れる中、人々はいつまでもその場を離れようとしなかった。

 そして、「宗谷」だけが残った。
  かのキムタクは、雑誌(Myojo)のインタビューで「宗谷」について語っている。
「アイツってね、信じられない強運の持ち主なんだよ。戦争にも出ているんですよ」
  自ら撮影場所を「宗谷」に指定したといい、後世に伝えることの大切さも付け加えている。
「戦後、何もなくなったところから、力を尽くして南極に行った人たちがいるという、過去の事実を新たに知るきっかけのようなものになってくれればいいなと……」
  南極観測と言っても、あの頃はとにかく行っただけだった、などと言う人もいるが、「最初の一歩」を踏み出した人たちがいなければ、何も始まらなかった。
  その「最初の一歩」である一次隊〜五次隊までの操舵長を務めた三田安則さんが、平成二十三年、他界した。
  三田さんについての思い出はたくさんあるが、今でもその光景が浮かんでくる印象深いシーンがある。
  三年前、「宗谷」が七十歳ということで、船上で古稀祭の神事を行った時のことだった。「宗谷」に関わった色々な人が集まっていた。
  川南豊作氏の長女幸子さんをはじめとする親族、「軍艦宗谷会」のメンバー、海上保安庁関係者……、それぞれが玉串奉奠と参拝をしていき、「宗谷」で南極に赴いた南極観測隊の順番になった時だ。すべての人が同時に立ち上がると、誰が音頭をとるわけでもないのに寸分違わずに柏手が打たれた。
  私は数多くの神事に参加したことがあるが、こんなに感動したことはない。その時の皆さんは、まさに命を分かち合った同志そのものであり、神々しかった。
  おそらく、皆、三田さんに合わせて柏手を打っていたのだろう。私はなんとなく、そう確信した。そして、あの場にいた皆さんの心にいつも「宗谷」がいるような気がした。

「宗谷」の物語に登場する人物は、あまりにも多い。川南豊作から木村拓哉までを魅了し、厳しい世の中を生き抜いてきた。
  休館セレモニーを終え、名残惜しい気持ちを抱えながら、またこれから先のことも心にひっかかりながら、お台場を後にした。
  何の気なしに、振り返ると「宗谷」がニッコリと微笑んで「元気がないのか?いつでもここにいるから、会いにおいで」と言っているような気がした。
  これから「宗谷」をどうするのか、それが今、私たち日本人の宿題となっている。

桜林美佐(さくらばやし・みさ)
昭和45年、東京生まれ。日本大学芸術学部卒。フリーアナウンサー、ディレクターとしてテレビ番組を制作後、ジャーナリストに。防衛・安全保障問題を取材・執筆。防衛省「防衛生産・技術基盤研究会」委員。著書に「奇跡の船『宗谷』」「海をひらく−知られざる掃海部隊」「誰も語らなかった防衛産業」(並木書房)、「終わらないラブレター−祖父母たちが語る『もうひとつの戦争体験』」(PHP研究所)、「日本に自衛隊がいてよかった−自衛隊の東日本大震災」(産経新聞出版)。
http://www.misakura.net/