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作者ノート

 アルフレッド・セイヤー・マハンは、軍艦が帆船から蒸気船に、木造艦から装甲艦に、短射程の舷側砲から長射程の回転砲塔に、通信手段が旗から無線に変わるという技術革新の時代を生きたアメリカ海軍軍人です。
  マハンの海軍戦略の啓蒙書は、その価値を変えることなく、いまも読み継がれています。現代は当時よりもさらに航空機やミサイル、潜水艦、そして電子戦や宇宙、サイバーなど軍事技術が発展していますが、マハンの海軍戦略の本質は変わることはありません。これはクラウゼヴィッツの『戦争論』に匹敵するものです。
  クラウゼヴィッツと違い、マハンにはほとんど実戦経験がありません。南北戦争に従軍していますが、遠くで砲声を聞くくらいで砲火を交えていません。その後、巡洋艦の艦長などを務めましたが、顕著な戦歴はないのです。
  マハンは軍人というよりは研究者でした。多くの本から得た知識をもとに海軍戦略理論を創り上げ、多くの著書を残しました。そして、その優れた分析力により、アメリカだけではなく、ドイツ、日本、イギリス、そしてソ連や現代の中国にまでその影響力は及んでいます。
  とくに日本では明治の海軍軍人に多くの示唆を与えました。マハンは幕末の日本を訪れ、武徳を尊び礼節を尽くす独特の文化、庶民の教養の高さ、四季折々の豊かな自然に感動しました。そして日本人に親近感を覚え、海軍戦略の真髄を多くの優秀な日本海軍軍人に惜しみなく与えました。
  日本の「海軍戦略の祖」ともいえる林子平の『海国兵談』とマハンとの関係は筆者の想像ですが、ペリー提督は日本に来る前に林子平の著書『三国通覧図説』を研究しており、当然マハンも林子平の存在を知っていたはずです。
  マハンは日露戦争で日本が勝利したのち、日本に対する警戒感を強め、敵愾心を持ち始めました。当時の大統領セオドア・ルーズベルトが熱心な日本支持者から日本の敵対者に変わったのはマハンの影響があったのかもしれません。
  前述したように、マハンの教えは今も生きています。とくに海軍戦略の本質を捉えた『海上権力史論』は、呉市海事歴史科学館の戸高一成館長が言われるように「常に新しい時代背景の中で読まれるべき書物」です。

目 次

第1話 海国兵談 
第2話 海上権力史論 
第3話 四日海戦 
第4話 ナイル海戦 
第5話 トラファルガー海戦 
第6話 日露戦争 
第7話 日本海海戦 
第8話 ドイツ帝国の挑戦 
第9話 シーパワー 

解説:中国はマハンのテーゼを覆せるか?(堂下哲郎・元海将)
作者ノート 
主な引用・参考文献 

アルフレッド・セイヤー・マハン(Alfred Thayer Mahan)
アメリカ海軍の軍人・歴史家。最終階級は少将。1840年ニューヨーク州ウェストポイント生まれ。59年海軍兵学校卒業。61年少尉任官。南北戦争ではフリゲート「コングレス」などに乗艦。1872年「イロコイ」の副長として幕末・明治維新の日本を実見した。85年論文「メキシコ湾と内海」が評価され大佐に昇進。海軍大学校の初代教官を務め、海戦術の教育を担当。86年海軍大学校校長兼海軍史・海軍戦略教授。86〜89年海軍大学校長。90年「海上権力史論」発表。92〜93年海軍大学校長。93年「シカゴ」の艦長としてイギリス訪問。退役後「ネルソン伝」「米西戦争の教訓」「フランス革命とナポレオン帝国におけるシーパワーの影響」「海軍戦略」等を発表。1899年、第1回ハーグ平和会議アメリカ代表団顧問。1902年アメリカ歴史学会会長。1914年死去。海洋戦略の古典的理論家であり、その著書は世界各国語で翻訳されている。大艦巨砲主義を助長したとして批判の矢面に立たされることもある。根拠地と交通線を重視したマハンの戦略を忠実に継承しているのはソ連海軍といわれる。

石原ヒロアキ(本名:米倉宏晃)
1958年、宮城県石巻市生まれ。青山学院大学卒業後、1982年陸上自衛隊入隊。化学科職種幹部として勤務。第7化学防護隊長、第101化学防護隊長を歴任。地下鉄サリン事件(1995年)、福島第1原発事故(2011年)で災害派遣活動に従事。2014年退官(1等陸佐)。学生時代赤塚賞準入選の経験を活かし、戦争シミュレーション漫画『ブラックプリンセス魔鬼』および自衛官の日常を描いた『日の丸父さん』(電子書籍で発売中)、2018年『日米中激突!南沙戦争』、2019年『漫画クラウゼヴィッツと戦争論』(並木書房)を発表。現在、名将グデーリアンを題材に執筆中。クラウゼヴィッツ学会会員。