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はじめに

 一九一四年六月二八日、サラエボで、オーストリア=ハンガリー二重帝国の皇太子フェルディナント大公が、セルビア人学生プリンチップによって殺害された。プリンチップは現行犯逮捕され、従犯六人も芋づる式に検挙された。二重帝国官憲は、使用武器や共同謀議、秘密結社「ブラックハンド」(黒い手)の存在を立証し、セルビアの国家テロと断定した。

  ヨーロッパ各国ではセルビア排撃の声があがり、「ヨーロッパのノミ」「クズ国家」といった非難が巻き起こった。ところが、二重帝国は淡々と犯罪の証拠を公開したものの、口汚く非難することはなかった。

  二重帝国は、誰からも愛された華麗なる国家であった。ヨーロッパ一の美女と謳われたエリザベート皇后(愛称シシー)、壮麗なベルヴェデーレ宮殿、ラデツキー行進曲に乗って進む陸軍を見れば、どういった扱いを受けても、貴族的に振る舞い、小国セルビアに暴力的なことはしないと思われた。

  その二重帝国が、サラエボ事件から二五日経った七月二三日突然、期限四八時間の最後通牒をセルビアに投げつけた。最後通牒という言葉自体、著しく古典的に聞こえ、何か誘拐犯の身代金要求のようだった。

  最後通牒の期限が終了する直前、独墺東部国境にロシアの大兵が動員され、続々と集中を開始した。この事態は英独仏を驚愕させた。

  一九世紀のヨーロッパは、外の植民地戦争はさておき、平和な世界であった。ナポレオン戦争以降、短期間で終了した局地戦を除き、戦争らしい戦争はなく、大衆は平和を謳歌した。そこに「最後通牒」「総動員」といったおどろおどろしい言葉が新聞の見出しに踊った。

  七月三一日、ドイツは「戦争の危険性の存在」を宣言した。この直前まで、ドイツ国内の市民生活はまったく平穏で、市民は普通に仕事に行き、家庭生活を営んでいた。そのわずか四日後、想像できないような出来事が起きた。

  八月四日午前八時二〇分、ドイツ陸軍全七軍、三五個師団約一〇〇万の大軍が、ベルギー国境ゲメニッヒ突破をきっかけに、続々とフランスになだれ込んだ。ドイツ軍は『シュリーフェン計画』を実行に移したのだ。それは当時の軍事学の粋を極めたものだった。

  露仏vs 独墺の二陣営に分かれて、戦いの火蓋は切って落とされた。直後に日英が露仏につき、トルコが独墺につき、大分遅れて、アメリカが参戦し、世界戦争に発展した。

  非同盟のイギリスまでもが、テロをやったセルビアの後ろ盾の露仏側について戦った。第一次世界大戦(以下、第一次大戦)は、大義やイデオロギーと無縁であった。たんに「通過の便」「簡単に始末できる隣国」「事前計画で攻撃予定」といった理由で開戦され、条約は「紙切れ一枚」であった。

  戦争は、四年三カ月続き、延べ六五〇〇万人の将兵が動員され、八六〇万人の戦死者を出した、連合国には二七カ国が加わり、中央同盟諸国には四カ国であった。そのうち実戦に参加したのは一六カ国であった。

  戦闘はいかに戦われ、兵士は傷つき死んでいったのか? それが、この本のテーマである。どの戦場も凍てつくような、あるいは泥濘の環境で、国家に忠誠を尽くそうとした二〇代の若者と死体で埋め尽くされた。

  戦争が終わると、近代ヨーロッパは徹底的に破壊され、誰も模倣したくない過去の残像となった。それまで世界の模範であったヨーロッパ文明は、戦争のあまりの破壊の凄まじさによって、人々の心から消滅した。

  国家は生き残ったが、ヨーロッパ最良の部分は戦場で死んだのである。




 はじめに 1

1 サラエボ事件 9
2 直前外交 18
3 シュリーフェン計画とマルヌ会戦 39
4 タンネンベルク殲滅戦 100
5 ガリシアの戦い 129
6 ロッヅ付近の戦闘 140
7 第一次イープルの戦闘 152
8 ゴルリッツ突破戦 161
9 ロシア軍の秋季反攻 174
10 第二次イープルの戦闘 184
11 ベルダン攻防戦 195
12 ブルシロフ攻勢 208
13 ソンムの戦い 225
14 ニベルの攻勢 240
15 ロシア革命 251
16 第三次イープルの戦闘 270
17 カイザー戦 289
18 連合軍の最終攻勢 303

おわりに 329
参考文献 333
第一次大戦年譜 344
索 引 350

別宮 暖朗(べつみや・だんろう)
1948年生まれ。東京大学経済学部卒業。西洋経済史専攻。その後信託銀行に入社、マクロ経済などの調査・企画を担当。退社後ロンドンにある証券企画調査会社のパートナー。歴史評論家。ホームページ『第一次大戦』を主宰するほか『ゲーム・ジャーナル』(シミュレーション・ジャーナル社)に執筆。著書に『中国、この困った隣人』『旅順攻防戦の真実』(PHP研究所)、『東京裁判の謎を解く(共著)』(光人社)、『誰が太平洋戦争を始めたのか』『日本海海戦の深層』(ちくま文庫)、『戦争の正しい始め方、終わり方(共著)』『軍事のイロハ』『韓国の妄言』『失敗の中国近代史』『太平洋戦争はなぜ負けたか』『「坂の上の雲」では分からない日露戦争陸戦』『日本の近代10大陸戦と世界』『終戦クーデター』(いずれも並木書房)、『帝国陸軍の栄光と転落』『帝国海軍の勝利と滅亡』(文春新書)がある。