立ち読み   戻る  

目 次

第1章 海主陸従で始まった日露戦争 7

ロシア極東艦隊必敗の図上演習 7
帝政ロシア崩壊の一里塚 11
ニコライ二世のアジア人蔑視 13
伊藤は、日英同盟と日露協商が両立すると信じていた 16
日英同盟の骨子を決めた伊藤=ランズダウン会談 19
龍岩浦の基地設営はロシアの侵略行為であった 25
対露開戦を決意した無隣庵会議 28
斬新だった山本権兵衛の奇襲開戦案 32
自衛戦争として開戦することが肝要 38
日英同盟の発動 42
ニコライ二世「僕は戦争を欲しない」 44
ロシア側は戦争を予期していなかった 46
アルゼンチン巡洋艦『日進』と『春日』の購入 51
海軍が進める奇襲開戦案を知らなかった参謀本部 54
開戦上奏をめぐる異様な口喧嘩 56

第2章 鴨緑江と得利寺における快勝 61

戦争の準備なく日露戦争に入った陸軍 61
開戦後、急遽つくられた『新作戦計画』 63
陸軍はロシアと満州で戦うことを想定しなかった 64
ロシア側は約六個師団の増強に成功した 66
日本軍の快勝、鴨緑江渡河作戦 69
第二軍の上陸予定地点転々とす 72
参謀本部はまともな作戦計画すらつくれなかった 73
計画より遅れた第二軍の塩大澳上陸 76
水際作戦か内陸迎撃防禦作戦か? 79
消耗の激しい持久戦に適した第二軍の編成 81
北進か南進か判然としない第二軍の任務 82
南山への完全なフロンタル・アタック 84
死屍累々。日本軍の攻撃は頓挫した 86
日露戦争中唯一の敗北例、南山戦 90
クロパトキンとアレクセーエフの大激論 92
クロパトキン、旅順解囲の攻勢を決心する 96
苦戦した日本騎兵の初陣 97
小川師団長、独断専行で得利寺停車場を急襲す 101
ロシア政府による虚偽の「正式発表」 106
日本軍は簡単に潰乱するような軍隊ではなかった 108

第3章 遼陽会戦と沙河会戦における失敗 112

大日本帝国は世界に例がない陸海二元統帥に陥った 112
ロシア満州軍は常に兵員不足に悩まされていた 115
騎兵は期待された役割を果たせなかった 117
遼陽会戦における日本軍の作戦計画 120
首山堡で頑強な抵抗に遭い第二軍は苦戦した 123
市川紀元二の一番乗りの軍功 125
最前線から遠すぎた満州軍総司令部 130
黒木司令官の好判断、太子河渡河 133
第十二師団は動かざること山の如し。ついに饅頭山を死守 134
包囲作戦の初歩も知らない松川参謀の責任回避 137
日本軍はロシア軍を追撃しようとしなかった 140
ロシア側の兵站は冬季に入りさらに悪化した 143
片翼包囲作戦の問題点 144
戦さには『にほひ』がある。梅沢旅団長の戦上手 147
追撃の好機を逸した停止命令 151

第4章 黒溝台会戦と奉天会戦 155

沙河会戦後、五カ月の長期持久戦に入った 155
大敗したミシチェンコ騎兵集団の営口来襲 158
秋山支隊による陣地構築と矢左衛門戦法 160
南部沈旦堡をロシア軍から取り返した 162
黒溝台の攻防。秋山支隊と立見師団の善戦 163
整備された陣地への突撃はまったく有効でなくなった 165
ロシア軍の兵站線は一本の細い線に過ぎなかった 168
クロパトキンは防勢作戦を決心した 169
大山巌は第三軍をもって間接包囲作戦を決心した 171
失敗した鴨緑江軍の陽動作戦 176
奉天会戦攻勢発起 178
干洪屯三軒屋付近の激戦 187
奉天会戦の勝因 192

第5章 停戦を望んだ児玉源太郎の弱気 194

奉天会戦は日本軍の大勝利であった 194
児玉の「講和工作」についての考え方は根本的に誤っている 196
これ以上の継戦が難しいという陸軍の見解 199
クロパトキン総司令官の降格 201
陸軍も海軍も勝利のあとの戦闘再開を嫌がった 203
海軍は小村外相の希望をまったく考慮しなかった 207
川上・田村両参謀次長はなぜ事前作戦計画をはずしたか? 208
満州軍総司令部による稚拙な作戦計画 211
ドイツ式参謀教育が満州陸戦失敗の遠因 213
参謀は作戦計画を自画自賛し、失敗を将兵に帰する 217
満州軍総司令部ができてから前進が停滞した 220



あとがき

 日露戦争の陸戦の大半は満州で戦われた。日露両軍とも、緒戦の南山・鴨緑江から奉天に至る会戦で延べ百万人以上の将兵を戦場に展開した。最後の奉天会戦では、日露併せて五十六万の大軍が激突した。それはまさしく、それまでで最大のナポレオン戦争のワーテルロー会戦を抜く、人類史上最大の会戦であった。
  彼我の損害という点で勝敗を判定すれば、南山の戦いを除き、旅順攻防戦を含み、日本軍が圧勝した。この日本軍勝利の理由はさまざまにいわれてきた。なかには、司馬A太郎を代表として、日本軍 は兵力において劣ったが、作戦計画能力で上回ったためだとの見解がある。そしてその功績を作戦計画策案を担当した満州軍総司令部の児玉源太郎総参謀長や参謀たちに帰するのである。この見解は全く事実に反する。
  ロシア満州軍は常に補充に苦しみ、外見からの師団数では日本軍を上回っていたが、大幅な定員未達に悩んでいた。日露両軍の兵力はほぼ互角の場合が多かった。また、日本軍の満州軍総司令部の作戦計画で評価に値するものはない。
  じっさいに策案した井口省吾・松川敏胤両参謀は、陸大エリートであって、自己への矜持ばかりで、数個の師団を統合して運用する場合の戦術、包囲・突破作戦について全く研究していなかった。ドイツから招聘されたメッケルに影響され、応用戦術(師団単位の戦闘法)に止まっていたのである。日露戦争陸戦の勝利は参謀将校によってもたらされたのではなかった。児玉源太郎の超人的能力によるものでもなかった。
  近代戦において作戦計画策定は一人だけの手に負えるものではない。チームでやるしかなく、その場合、情報・連絡・兵站・作戦を担当する参謀が連繋し合い、各部隊への命令から政府との連絡まで膨大な作業をこなす必要があった。そのうえで、作戦参謀は全ての必要を満たす作戦計画を樹立するのである。
  それでも作戦計画だけでは戦闘に勝利することはできない。各級司令官は与えられた命令の枠内で、独立して戦闘行動を決心し、それに見合った最適な戦機を発見せねばならない。最後は、戦場にいる兵士の勇気こそが決定的要素である。
  日本軍はロバに率いられたライオンであった。大山・児玉は軍人というよりむしろ政治家であり、東京あるいは総司令部内の調整能力において優れていた。その下の作戦参謀の井口・松川は、自分に与えられた小さな権力を振り回し、組織の権威維持に汲々とする人物であった。優秀な兵士と現場指揮官がありながら、現場における戦局の進捗について行けず、「総司令部の命令に従え」と絶叫するだけであった。
  陸軍将校は終身雇用であり、一旦ついたポストからはなかなか放逐できない。児玉源太郎はこの二人の無能参謀の策定した作戦計画を表面的に承認し、途中で現実に合わせて修正しながら、数次の大会戦をなんとか勝利に導いたのであった。
  この関係は現代日本の縮図でもあろう。「官僚を使いこなす」のが大事と言いながら、人事すら掌握できず、逆に使われているだけの政治家がいかに多いことか。ただし、大山巌は勝利した将軍であって、出した命令について最後まで責任を負い、また「お友達内閣」のような依沽贔屓人事はやらなかった。児玉源太郎にしても、よく小説に書かれるように、我のみ正しいとして同僚を片端から論破しまくったり、演習における勝利を誇ったりした偏狭な人物ではなかった。
  それでは誰が日露戦争陸戦の最大の殊勲者であろうか。前半では旅順攻防戦、後半では奉天会戦が決戦であった。旅順攻防戦の転機は、塹壕には塹壕で対処し、要塞兵を減耗させる戦術を採用したとき訪れた(拙著『「坂の上の雲」では分からない旅順攻防戦』並木書房刊・PHP文庫『旅順攻防戦の真実』をご参考下さい)。
  奉天会戦では第三軍(乃木)が鉄嶺への「大中入れ」をやめ、隣接する第二軍(奥保鞏)と間隙をつくらず、正面を奉天市街に変換したことが転機になり、日本軍が勝利した。
  乃木希典がこの二つとも決心した。乃木は大量の軍学書を読みこなした勉強家であって、近代軍事学の原則に忠実であった。第一次大戦ではドイツのシュリーフェンプランは、第一軍と第二軍の間が開きすぎたため挫折した。そのあとは、塹壕を挟んで四年半の消耗戦となった。乃木の戦術はこの時代に普遍的に通用した。
  乃木希典は奇を衒わず、ただ兵士の生命を損なわず、戦勝へと導こうとした。困難や矛盾から逃げない、現代日本のどこにでもいそうな、実直な融通のきかない老人であった。乃木だけでなく、日露戦争に参加した日本人は現代の日本人と同じような人々であり、皆、英雄であった。
  日本軍兵士は、世界のどの列強の軍隊と比較しても長距離の行軍に耐え、いかなる粗食にも甘んじ、数倍する敵に直面しても後ろを見せなかった。戦場にいた指揮官も、参謀本部あるいは総司令部の実際を見ない、独りよがりの作戦計画を、現場の実情にあわせて修正、また独断専行し、自ら戦機をつかみ、全軍を勝利に導いた。
  満州軍が満州で大勝利した軌跡は、現代日本においても非常に示唆に富むものである。
  別宮暖朗

別宮 暖朗(べつみや・だんろう)
1948年生まれ。東京大学経済学部卒業。西洋経済史専攻。その後信託銀行に入社、マクロ経済などの調査・企画を担当。退社後ロンドンにある証券企画調査会社のパートナー。歴史評論家。ホームページ『第一次大戦』(http://ww1.m78.com)を主宰するほか『ゲーム・ジャーナル』(シミュレーション・ジャーナル社)に執筆。著書に『中国、この困った隣人』(PHP研究所)、『東京裁判の謎を解く(共著)』(光人社)、『戦争の正しい始め方、終わり方(共著)』『「坂の上の雲」では分からない旅順攻防戦』『「坂の上の雲」では分からない日本海海戦』『軍事のイロハ』『韓国の妄言』『失敗の中国近代史』『太平洋戦争はなぜ負けたか』(いずれも並木書房)、『誰が太平洋戦争を始めたのか』(ちくま文庫)がある。