はじめに
世界で最も恐るべき「ソフト・パワー」は、次期駐日大使候補のジョゼフ・ナイ氏が夢想するようなハリウッド映画などではない。シナ文明を西欧の慣習に対してインヴィンシブル(無敵)たらしめている「老子(道教)の兵法」だ。
明治維新は、北村透谷が叫んだように、自由主義革命だった。しかし日本には、自由な個人に社会的な自制を促した西洋のキリスト教会のような、近代経済に不可欠な倫理の学統がなかった。自己と対等な他者の存在を認めぬシナ/朝鮮式の儒教に頼るとすれば、明治維新はただの反近代革命(幕府交替)に堕すだけだ。ここから、福沢諭吉ら先人たちの、宗教的な苦闘が始まったのだ。
新渡戸稲造は、日本人はクリスチャンでこそないけれども、古代ギリシャ人のような正邪の言語的誠実さをもっているから西欧文明のメンバーになれる――と欧米に宣伝しようと決意。近代日本の新宗教たる「武士道」を創案した。
が、東大の御用学者らの嫉妬心から、この新渡戸路線は、洗練・完整されるまえに、早々と息の根を止められた。
逆に、反動的な「教育勅語」の普及と、山鹿素行や『葉隠』(山本常朝)の引っぱり出し、宮本武蔵の称揚などによって、「武士道」という言葉の意味・内容そのものが歪められた。ついに、真珠湾の奇襲開戦のどこが悪いと開き直るような没倫理的な日本人を現代においてまで大量育成することになっているのである。
ルース・ベネディクトの『菊と刀』は、こうして日本人自身が扼殺した新渡戸流「武士道」に再び光を当て、敗戦後の日本に独立と自主武装を許しても良いのだと米国東部の知識人層を説得しようとしたものであったが、三島由紀夫のような日本の秀才すら、ベネディクト(および彼女にそれを書かせた米国政府内の親日派)の意図を理解することはできなかった。それほどまでに、戦前の「教育勅語」の呪いが深甚なのである。
本書は、三島流「武士道」ではなく新渡戸流「BUSHIDO」の正しい延長上に、現代の日本人がシナ式混沌に呑み込まれず西欧文明とともにサバイバルしていくために、最低限備えておくべき三箇条の倫理――「公人が公的な約束を破ったら恥じよ」「無害な他者・他国に対して不親切な働きかけをするな」「有害な他者・他国からの干渉には必ず反撃の策を講ぜざるべからず」――を、提唱する。
さらに、本書の後半では、シナ人労働者を日本国内に大量に受け入れようとする政策が、まさに「老子の兵法」の術中にはまるものに外ならず、それでは日本文明の滅亡が確実になるだろうと警告。むしろ今こそ三十代の日本人失業者に国費を投じ、社会的職業人としての再訓練を施さねばならない、と説く(第5章)。
また当面、不良外国人が地域コミュニティの治安を悪化させていくであろう近未来に備えるべく、家庭で為すべき防衛策を、著者の実体験に即して、詳細に指南する(第6章)。
最終章では、シナに隣り合わせている日本として、世界に対して倫理的に貢献する仕事の一例として、インターネットと英文を駆使した政治的な訴えかけの手法を、人権運動家へのインタビューによって紹介している。
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