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 目 次

第1章 太平洋戦争は海軍の戦争だった  5

両大戦を通じて大量の餓死者を出した軍隊は日本軍以外にない 5
島嶼戦という概念は各国の軍事学において存在しなかった 8
主戦場を太平洋の島嶼とした戦略的失敗 14
基地航空優位説は「兵法」としては根本的に誤っている 15
井上成美の『新軍備計画』が空母艦隊決戦敗北の原因となった 18
海軍は陸兵を孤島に置き去りにしても、戦闘が可能であると錯覚した 21
日米戦争の開戦責任は海軍にある 24
太平洋戦争は海軍の戦争だった 26

第2章 制海権なき海軍戦略  29

海戦を決したものは主力艦の数と能力 29
日本海軍が三十年かけて練り上げた「漸減邀撃作戦」 32
カリスマ的指導者山本五十六の下、日米戦争に邁進した 34
空母艦隊決戦が戦いの帰趨を決めることに誰も気づかなかった 38
日米両海軍の機動部隊の陣形は大きく異なっていた 41
山本は空母集中運用を編み出したが、不完全なものだった 45
日本陸軍も補給さえつながっていれば米軍に善戦できた 46

第3章 勝敗を決めた空母艦隊決戦  49

昭和一七年と昭和一九年の日米空母艦隊決戦 49
戦略的敗北ではなかった珊瑚海海戦 51
ドーリットル空襲が引き金となったミッドウェー海戦 60
机上の図演しかできない海軍参謀の致命的な失敗 65
「日本海軍は、奇襲を必要としない場合も奇襲に依存するという錯誤を犯した」 72
参謀の無能が際立ったミッドウェー作戦 74
奇策が功を奏した第二次ソロモン海戦 79
日本海軍最後の空母艦隊決戦勝利、南太平洋海戦 85
決戦を挑まずに艦隊温存策をとった歴史の謎 92
ガダルカナルの陸軍の存在は必ずしも重要ではなかった 95
日本海軍の勝利はハワイではなく、ガダルカナルの海戦だった 102
パイロットの養成に遅れた日本海軍 104
引きこもる連合艦隊。山本五十六は敢闘精神を失っていた 108
山本暗殺。日本海軍は同じ手を繰り返して連敗する 110
日本海軍は嵐のようにきて嵐のように去っていく 114
海軍軍令部は常に二倍の敵と錯覚して作戦を組んでいた 116
連合艦隊は「マリアナの七面鳥撃ち」で壊滅 120
搭乗員の練度不足を敗因にあげるが事実ではない 124
四千機を動員した「特攻」は大きな戦果をあげた 128

第4章 太平洋戦争の敗因  130

海戦の最大の戦果とは、決戦海面の制海権である 130
日本海軍は海戦に勝利しても、すぐ逃げ帰ることを習性にした 135
日本海軍には「抑止力としての艦隊」という発想がなかった 137
海軍は「大艦巨砲主義」というありもしない教条に責任転嫁した 140
第一次大戦後、爆撃機が攻撃兵器の主流になるとみられた 144
山本五十六の雷撃機重視がハワイ作戦を生んだ 146
急降下爆撃機「彗星」はなぜ失敗したか? 151
「整備は不可能」といわれるほど稼動率が低かった彗星 159
アメリカとの空母建艦競争に遅れをとった日本 160
日本の空母機動部隊の陣形上の欠陥 163
統制経済の弊害。エレクトロニクス技術の立ち遅れ 165

第5章 大日本帝国の終焉  168

陸軍の人事権をめぐる争いで宇垣内閣流産 168
現役官僚が大臣を指名する現役主義が常態化した 174
「統制経済」が自由な競争を奪い、生産性は低下した 178
日本の統制経済はドイツ国家社会主義経済よりも効率が悪かった 183
官僚主導の昭和一一年体制がその後の国防を脅かした 185
エリート役人主義と統制経済が日本の継戦能力を奪った 187
太平洋戦争は日本経済が停滞した二十年間の真っ最中に起きた 190
GHQの占領政策がさらに日本を弱体化させた 193
自由化政策で昭和一一年体制がようやく終わりを告げた 196
何が太平洋戦争を引き起こし、大日本帝国を滅ぼしたか? 199

  参考文献 203

  あとがき 207



あとがき

  十九世紀後半以降現在にいたる大きな戦争は、持久(長期)戦争と決戦(短期)戦争の二種類に分けることができる。
  持久戦争では、長期にわたり戦闘が続き、塹壕が連なった戦線ができ、消耗戦の様相を呈し、両軍の人的被害は膨大である。多くの場合、最終的勝敗はつくものの、戦闘は、勝ったり負けたりの連続であることが多い。一方、決戦戦争とは一回の大会戦で勝敗がつき、双方の被害は少なく、半年以内に終了する。
  十九世紀後半の戦争はアメリカ南北戦争を除いて全て決戦戦争であった。代表的なものは普墺戦争と普仏戦争であり、ケーニッヒグレーツとセダンの両会戦によって戦争そのものに決着がついた。二十世紀に入ると日露戦争を嚆矢として第一次大戦を典型とする持久戦争が現出した。
  第二次大戦では、支那事変、ポーランド戦、フランス戦は決戦戦争であり、独ソ戦と太平洋戦争は持久戦争であった。第二次大戦以降では朝鮮戦争とイラン・イラク戦争が持久戦争であり、数次の中東戦争や湾岸戦争は決戦戦争である。
  支那事変が決戦戦争というのは奇異に聞こえるかもしれないが、じつは首都南京陥落直前にB介石は日本側の条件を丸呑みして休戦を申し込んでいた。近衛政権がそれを受諾すれば戦争は終了したはずである。同様にイラク戦争でもフセイン政権が打倒されたあと米軍が直ちに撤退すれば、戦争は終了していた。ところが近衛政権もブッシュ政権も自分の気に入る新政権樹立を目指したのである。これでは終わる戦争も終わらない。
  なぜ戦争がこのように極端な二分法となるのか、はっきりした解答はない。第一の推測は鉄道の発達である。アメリカ南北戦争でも日露戦争でも常に鉄道沿いで戦闘が起こった。この両戦争とも両軍併せて三十万人以上の兵士が参加した大会戦が発生しており、こうなると鉄道沿いでなければ補給が続かなかった。
  鉄道がなぜ戦争を変化させたかといえば、攻撃側は徒歩でしか進めないにもかかわらず、防禦側は鉄道が利用できたからであった。攻撃側に戦線を突破されても、防禦側は予備隊を鉄道で運び、兵力が上回り次第、戦闘を再興できた。防禦側が有利になり、攻撃側が不利になった。この結果、当初攻勢に出た側が思惑に反し敗北するようになった。「攻撃は最大の防禦なり」というドクトリンが通用しなくなったのである。
  一般に戦争を仕掛ける側(すなわち侵略国)は、膨大な準備が必要である。最大のネックは陸軍の動員である。平時の陸軍はすぐ戦闘できる態勢になっておらず、最低でも予備役を召集するため動員を下令する必要がある。予備役とは市井に暮らす民間人であって、それを兵営に赴かせねばならない。
  動員令が下令されれば国境を接する国は警戒し、呼応して動員をかけるのが普通である。つまり先制攻撃をしても奇襲は成立しなかった。侵略(ベルサイユ条約やパリ不戦条約が成立するまでは侵略=先制攻撃は国際法違反ではなかった)側は、それでもなお勝つことができる戦争計画を策案する必要があった。その国の最高の頭脳を集めた参謀本部といわれる官僚組織がその任にあたったのである。
  戦争計画はまず例外なく短期戦を前提とした。これが第二の推測であろう。長期戦=持久戦争とはいわば戦争計画が失敗した結果なのである。こういった戦争計画は、緻密・堅牢にならざるを得ず、いったん走らせると中断することは不可能である。
  二十世紀の戦争の大半はこの短期戦幻想にもとづく戦争計画によって開始された。日本においても例外ではない。ただし特徴的なことは、海軍軍人が短期戦幻想をもったことである。日露戦争では、山本権兵衛が開戦と同時に旅順口外を急襲し、それだけで戦争に勝てると信じた。山本五十六は、この作戦に関して、「開戦劈頭に於て採るべき作戦計画と題して、我等は日露戦争に於て幾多の教訓を与えられたり。その中開戦劈頭に於ける教訓左の如し」と書き(『及川古志郎への手紙』)、
「開戦劈頭敵主力艦隊急襲の好機を得たること」
  と称揚した。真珠湾攻撃の着想は旅順口外奇襲作戦から得ており、五十六も権兵衛もともに開戦劈頭の奇襲によって、戦力の均衡が崩れ、直ちに戦争そのものに勝利すると錯覚したのである。
  日露戦争では初頭作戦が終了すると海軍指導者は東郷平八郎に代ったが、太平洋戦争では山本五十六のままであった。官僚界における現役主義が確定し、カリスマ的軍事指導者山本五十六を交代させることは不可能になった。
  第一次大戦では、ドイツの戦争計画(シュリーフェン・プラン)はマルヌ会戦で失敗、参謀総長小モルトケは直ちに革職された。ところが独ソ戦におけるヒトラーは、戦争計画、ウンターネーメン・バルバロッサが失敗しても交代できず、けっきょく戦争そのものがその自殺まで続いた。
  短期戦幻想にもとづき戦争を開始し頓挫したとき、当初指導部を全部更迭せねば戦局の挽回は難しい。日本では真珠湾奇襲半年後に起きたミッドウェー海戦ですらごく少数の人間しか知らされず、その失敗について真剣に検討されなかった。じつは、ハワイ作戦も直ちにアメリカが降伏しなかったという事実で失敗とみなすべきであった。
  山本権兵衛は政治家であったが、山本五十六やその参謀は軍官僚であった。官僚の処世術の特徴は無謬性の主張と責任回避である。官僚現役主義と統制経済から成り立つ昭和一一年体制の下では、政治家はおろか各官庁の長老ですら現役官僚を更迭できなくなっていた。
  日本海軍が同じ戦略をとり、同じ間違いを何度も繰り返したのは、同じような人間が同じような作戦で臨み、結果大失敗をやっても誰からも非難されず、原因について真剣に検討されなかったためだ。
  省みれば、社会保険庁による失われた年金という社会問題を発生させたのもまた同根である。徴収した保険金を社会保険庁の収入であると錯覚し、さまざまな天下り施設に浪費し、じっさいに過少な年金支払いが生じると自らの記帳ミスであるにもかかわらず、無謬であると居直り二十年三十年前の領収書を持参せよという理不尽な有様であった。
  起きた失敗について世論が喚起されるまで真剣に向き合おうとしなかったのである。しかも責任者は民間であればとっくに退くところを「ワタリ」で職場を転々とし高給を食む有様である。
  こういった官僚の独善が生じたのは昭和一一年体制の下であり、そのとき政治経済は統制(=社会主義)化し、それを運営すべき官僚は運命共同体化し、報道の自由をも制限された。国家は方向を失い誰も制御できなくなってしまった。
  自由がなくなった日本は、自由主義アメリカに敗北したのである。

別宮 暖朗(べつみや・だんろう)
1948年生まれ。東京大学経済学部卒業。西洋経済史専攻。その後信託銀行に入社、マクロ経済などの調査・企画を担当。退社後ロンドンにある証券企画調査会社のパートナー。歴史評論家。ホームページ『第一次大戦』(http://ww1.m78.com)を主宰するほか『ゲーム・ジャーナル』(シミュレーション・ジャーナル社)に執筆。著書に『中国、この困った隣人』(PHP研究所)、『東京裁判の謎を解く(共著)』(光人社)、『戦争の正しい始め方、終わり方(共著)』『「坂の上の雲」では分からない旅順攻防戦』『「坂の上の雲」では分からない日本海海戦』『軍事のイロハ』『韓国の妄言』『失敗の中国近代史』(いずれも並木書房)、『誰が太平洋戦争を始めたのか』(ちくま文庫)がある。