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[目次]

1 トンネルの向こう側 [1966年:東京] 5

2 コルト1911 [1981年:カリフォルニア] 14

3 新兵訓練 [1986年:ケンタッキー] 38

4 新任少尉 [1990年:メリーランド] 76

5 砂漠の嵐 [1991年:サウジアラビア] 110

6 山桜27 [1995年:熊本] 156

7 空爆の街 [1999年:ユーゴスラビア] 197

8 アメリカン・ドリーム再び [2005年] 224



あとがきにかえて
「地球人の世紀へ」

 その飲み屋は今はもうない。

 以前帰国した折に立ち寄ったら、渋谷駅ガードにほど近い「のんべい横丁」の、長屋風の飲み屋がひしめいていた一角が大きなビルになりかわっていた。夜な夜な暖簾をくぐったあたりに、無愛想なコンクリートの壁が立ちはだかっていた。
 かつてそこには、酔客の嬌声や愚痴、怒りに失望、そしてしたたかな野心を、おでんから立ち上る湯気が包み込んでくれた、優しい空間があった。
 十人すわれば一杯になってしまうこの「鶴八」というおでん屋に、生前の父が足繁く通ったのだ。いずれも故人になられたが、詩人の中桐雅夫氏や直木賞作家の半村良、田中小実昌の両氏も常連で、物書きや編集者、翻訳家の溜まり場だった。
 ぼくが顔を出し始めた頃にはすでに客筋も変わっていたが、それでもそうそうたる顔ぶれの出版人らの残像に囲まれて、ぼくは「父のようになりたい! 作家になりたい!」と闇雲に願った。むろん、創作の血となり肉となる人生体験も言葉の練磨も欠けていた。だから、理想と現実の狭間で身悶えた。二十歳だった。
 以来四半世紀以上がたち、ぼくは夭折した父の歳を越えてしまった。いまでも夢に出てくるが「年下」の父に頭が上がらない。SFマガジン初代編集長、翻訳家、作家として日本SFの黎明期に燃えつきた父への畏怖は変わっていないようだ。夢のおかしさ、甘い懐かしさが薄れるにつれ、ほろ苦い思いが湧いてくる。それは、父亡きあとの人生が、良くも悪くも反動であり反抗であったからだ。
 高校生の頃だったか、自衛隊に入ってパイロットになりたいと父に打ち明けたことがある。即座に返ってきた答えは「入るのはかまわないが、帰ってくる家はないと思ってほしい」とつれなかった。戦時中の教練下士官に下卑た男がいて、英語が読める父は辛く当たられ、徹底した軍隊嫌いになったとあとで人から聞いた。
 アメリカもあまり好きではなかったようだ。父はアメリカ人を「ヤンキー」と呼んだが、その響きにはSFという夢の文学を育んだ宇宙の開拓者アメリカと、占領者アメリカに対する愛憎半ばした屈折した感情がこもっていた。
 ぼくはそのアメリカに渡って、こともあろうか陸軍士官になった。自衛隊で勘当なら、星条旗に敬礼する軍服姿のぼくに父はいったいどう反応したことだろう。想像するだけで空恐ろしい思いがする。
 前作『LT』(一九九四年)には、そんな「反動の人生」を自分なりに総括し、世の人に問うてみる意味があった。第三回開高健賞奨励賞をいただいたことで、さまざまな反応に接する幸運に恵まれた。
 若い読者からは「日本の外で生きてみる勇気が湧いてきた」というコメントが多数寄せられた。わざわざDLI(米国防総省外国語学校)まで訪ねてくれる若者もいた。後年、自らも米陸軍に入隊し、アフガニスタン最前線に身を投じることになる飯柴智亮少尉がその一人であったことは本文でも触れた。
 また、合同演習などで帰国した折、一介の大尉にすぎない自分に対し、冨澤暉陸上幕僚長(現在退官)や先崎一陸将(現統合幕僚会議議長)がねぎらいの言葉をかけてくださるという栄誉にも浴した。日米安保大綱見直し会議でいたらない通訳任務を務めたときも、外務省や防衛庁の方々から「『LT』拝見しましたよ」と声をかけられ恐縮した思い出もある。同時に戦中派の読者諸氏からは「軍隊や戦場に生きがいを見出すのはやはり間違いだ」という率直な言葉もいただいた。
 本書『名誉除隊』は、主にその後の十年に取材している。名誉除隊というのは、米政府が軍隊経験者にあたえる資格のことで、在役中の記録がおおむね良好で、軍法会議や民事訴訟の対象になったことがなければ授与される。ちなみに、軍歴を重んじるアメリカ社会では名誉除隊証書がないと、退役後、州や連邦政府の仕事にはつけないきまりになっている。
 反動の結果だったとはいえ、二つの祖国を持つにいたった青春に悔いはない。この間、日米合同演習などを通じて自らの東洋ルーツを再確認したり、変質したアメリカをセルビア人妻というプリズムを通してみることができた。幼年期以来のナイーブなアメリカ礼賛を改めるうえで、またとない幸運だった。
 だから、現政権の単独行動主義や先制攻撃をふりかざす武力信奉には深く失望している。にもかかわらず、人類を宇宙文明という次の飛躍に導く旗手としてのアメリカにかける、用心深い期待はまだ持っている。
 お前はまだ書斎のトンネルで夢を見つづけているのだ、と言われそうだ。しかし、ドリーマーはぼくだけではない。若田光一さんにつづきスペースシャトルに乗り組んだ野口聡一さんは、日本人宇宙飛行士初の船外活動で大活躍をした。
「なんという眺めだ!」宇宙空間に乗り出し地球を一望した野口さんは叫んだ。地上で見守った子どもたちも同じ気持ちだったにちがいない。折から日本の旅行会社とアメリカのベンチャー企業が提携し、ロシアのソユーズ宇宙船を使って月周回旅行を売り出す話まで飛び出した。
 月といえば、アメリカも2018年までに再び飛行士を送り込み、ムーンベースの建設に着手する計画だ。ヨーロッパや中国も有人月飛行を宣言しているだけに、アポロ11号で一番乗りを果たしたアメリカが遅れをとるわけにはいかない面子があるからだ。
 大方のアメリカ人は「月基地から火星を目指す」というブッシュの新宇宙計画が、大国の面子以上の意味を持つものかどうか決めあぐねている。しかし、それで良いのだ。理由の如何にかかわらず、月に還り、ついで惑星を目指す行為そのものがアメリカを成長させ、幼年期との決別につながるかもしれないからだ。面子のために遮二無二なっているうち、図らずも、アメリカは国家を超える新しい尺度、つまり、国に代わって世界を運営していく運命共同体の枠組みを作り出していくかもしれない。
 宇宙開発、宇宙観光によって多くの人々が地球的視点を持つにいたるとき、このビジョンは決して荒唐無稽な夢物語にすぎないとは言えなくなる。
 先日も三人目のスペースツーリストが国際宇宙ステーションでの滞在を終えて無事帰還した。四人目は日本人実業家になるかもしれないという。
 それほど遠くない将来、世界一周航海ぐらいの費用で一般人が弾道飛行を体験でき、そこそこの富裕層が月周回旅行に出かけられる時代が駆け足でやって来つつある。

「地球人の世紀」は確かに近づいている。

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元米陸軍大尉が教える!!【軍隊式英会話術】
   
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加藤 喬(かとう・たかし)
米国防総省外国語学校日本語学部 部長。1957年SF作家・翻訳家である福島正実の長男として東京に生まれる。都立新宿高校卒業後、79年に渡米。カリフォルニア州立短大ラッセン・カレッジ、アラスカ州立大学フェアバンクス校で学ぶ。哲学を専攻する一方、米陸軍予備役士官訓練部隊(ROTC)で訓練を受ける。88年空挺学校を卒業。91年湾岸戦争に志願し第164直接支援整備中隊中隊長代理として「砂漠の嵐」作戦に参加。米国に帰国後、カリフォルニア陸軍州兵部隊第223語学情報大隊に転属し中隊長を務め、日米合同演習「山桜」で陸上自衛隊との連絡任務につく。退役後、現職。哲学修士。著書に第3回開高健賞奨励賞受賞作の『LT―ある“日本製”米軍将校の青春―』(1994年、TBSブリタニカ)がある。


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