立ち読み   戻る  

本書のポイント
1、砲の命中率とは、ハードやそれの訓練だけでは簡単に得られない。つまり砲術計算というソフトが死命を制する。日露戦争全期間を通じて、日本の命中率がロシアを常に上回っていたのは、砲手の訓練だったり、大和民族が優秀であったりしたわけではない。日本の砲術というソフト技術がすぐれていたのだ。
2、日本側は主力艦隊を遊撃隊と本隊とに分け、両方ともに単縦陣とし、相互に協力して戦おうとした。理由は本隊の低速のためである。しかしながら、高速部隊を本隊から独立させて、別個の指揮のもと運用するという考え方は、きわめて斬新であり、以降の海軍戦術で主流をなす方法となった。
3、敵前大回頭は、司馬遼太郎=黛治夫の言うように「弾が当たらないこと」を、英知をもって計算して実行したものではない。東郷司令部は、これがT字の理想であり、「弾が当たること」を、覚悟して実行した。

目  次
第1章 近代戦艦の歴史  9
 司馬は「海戦は戦艦で決定される」と考えた  9
 リサ海戦―衝角戦術による勝利  13
 鉄の心をもつ提督、テゲトフ  20
 大口径砲搭載のイタリア型砲艦  21
 大口径砲より有利な六インチ速射砲  25
 万能艦として期待された六インチ巡洋艦  27
 マカロフの六インチ巡洋艦無敵論  29
 巨大戦艦イタリアの衝撃  33
 近代戦艦の祖、マジェスティックの出現  34
 その後の戦艦設計の主流となった三笠  38
 ロシアの主力戦艦ボロジノ級の重大な欠陥  42第2章 日清戦争の黄海海戦  46
 中口径速射砲を重視した日本海軍  46
 艦の速度によって艦隊を分ける  48
 単縦陣対横陣の黄海海戦  50
 巡洋艦が戦艦に勝った  56第3章 砲術の進歩  59
 数学の能力を問われる砲術将校  59
 砲術の基本―左右を照準する  63
 砲術の基本―前後の識別をつける  67
 砲術計算というソフトが死命を制する  72
 照準望遠鏡・測距儀・トランスミッター  74
第4章 日本人だけが認めたマハンの海軍戦略  77
 歴史学的には疑問の多いマハンの海上権力論  77
 通商破壊戦を嫌ったマハンの艦隊決戦論  80
 古ぼけたマハンの将校教育論  86
 マハンの日露戦争の評論  88第5章 米西戦争  91
 戦艦メイン爆沈の謎  91
 米艦隊の一方的勝利だったマニラ湾海戦  96
 サンチャゴ・デ・キューバ海戦における索敵活動  105
 サンチャゴ・デ・キューバ海戦と閉塞作戦  111
 なんと戦艦が巡洋艦より速かった  116

第6章 東郷平八郎  120
 出 生  120
「艦砲とはなかなか当たらないものだ」  121
「黒田清隆の慧眼に敬服した」  123
 イギリス留学で学んだこと  126
 袁世凱の言論にいっさい耳を貸さず  128
 ハワイ王朝崩壊と邦人保護事件  130
 戦時国際法にのっとった高陞号撃沈  133
 なぜ東郷が連合艦隊司令長官に選ばれたか  139
 東郷平八郎と条約派  144第7章 日露両海軍の戦略  149
 ロシアの最高の人材を海軍に投入した  149
 遅れたバルチック艦隊の出師準備発動  152
 マカロフの艦隊温存策  155
 近接封鎖と閉塞作戦はなぜ失敗したか  158
 砲術の権威、ロジェストウェンスキー  162
 仮装巡洋艦ウェスタの勝利  164
 第一回目の極東回航  166
 激賞された砲術練習艦隊の演習  170第8章 機雷を初めて攻撃につかう  173
 マカロフ理論とヒョロヒョロ魚雷  173
 敵味方を区別しない機械水雷  179
 世界で初めて機雷で戦艦を撃沈した男  182
 連繋水雷  187第9章 旅順艦隊の全滅  190
 東郷暗殺計画  190
 永野修身の一二〇ミリ砲弾  193
 黄海海戦―一万メートルの砲戦  196
 なぜ、旅順艦隊は敗れたか  204第10章 バルチック艦隊の東征  211
 ニコライ二世と日本海海戦  211
 バルチック艦隊の東征と旅順艦隊全滅  214
 ロジェストウェンスキーの本意  218
 クロンシュタット出港  222
 ドッガー・バンク事件  225
 フランスは外交戦略の転換を決意した  231
 困難をきわめたアフリカ周回  233
 囮となったフェルケルザム分遣隊  235
 遅れたドブロトワルスキー分遣隊  238
 第三太平洋艦隊の結成  240
「貴官の任務は日本海の制海権を得ることにある」  245
 ロジェストウェンスキー最後の決断  247
 マラッカ海峡の白昼通過  252
「バルチック艦隊も旅順艦隊の二の舞になる」  256
 ネボガトフ艦隊との再会  259
 ウラジオへの三つの針路と石炭補給  261
 津軽海峡封鎖作戦  266
 連合艦隊、動かず  268第11章 日本海海戦  275
 ロジェストウェンスキーの決心  275
 東郷平八郎の決心  278
 反航戦からT字をきる戦法を発見せねばならなかった  283
 単縦陣、そして連繋機雷  287
「敵艦見ゆ」  291
 敵前大回頭  294
 ロジェストウェンスキー昏倒  302
 なぜZ字戦法はなかったか?  303
 魔の二八発目  305
 戦艦オスラビアの最期  309
 戦艦スワロフ・アレクサンダー三世・ボロジノの最期  313
 戦艦シソイ・ナワーリンの最期  320
 ネボガトフの降伏  324第12章 エピローグ  328
 ペテルブルグへの悲報  328
 捕虜の送還  331
 軍法会議  335 主要参考文献  340
 あとがき  344


 あとがき
 日露戦争時代の外交史を調べていて驚くのは、戦争がヨーロッパ政局に与えた影響の大きさである。日露戦争の前、ロシアの仮想敵国はドイツでなく、イギリスだった。そして英仏は植民地をめぐって対立しており、イギリスはドイツとの同盟を模索していた。
 これが日露戦争とその結果によって大きく変動し、英露仏とそれに対抗する独墺という図式が確定し、そのままの形でヨーロッパ各国は第一次大戦に飛び込んでいった。すなわち、第一次大戦は日露戦争の後遺症の側面がある。
 これと第二次大戦を比べてみよう。第二次大戦は時間的なずれを考慮すれば、ヨーロッパにおけるヒトラーの戦争と日米戦争とに分けることができる。そして日米戦争は、ヒトラーの戦争、フランス戦と独ソ戦に触発されて発生したものである。日米戦争とヒトラーの戦争の関係は、日露戦争と第一次大戦の関係と逆である。
 もちろん、明治の為政者は戦後ヨーロッパ情勢を考慮しながら、日露戦争に入ったのではない。朝鮮半島がロシアの勢力圏におかれることは、日本国民がロシアに奴隷化される第一歩とみなし、戦争を決意したものである。欧米の指導者の大半はこの事情を理解していた。
 日露戦争は少なくとも当時わかりやすい戦争だった。
 そして次に意外なことは、日露戦争において日本の海軍が用いた方法(ソフト)と装備(ハード)が、世界第一級、さらにその上を行くものがあったことである。
 海戦のためのハードの大半はイギリスからの輸入品だった。だが、輸入したイギリス製品はイギリス海軍も十分使いこなしていないような最先端品ばかりだった。造れなくとも技術評価はできていた。明治維新から三〇年ほどしか経たず、このようなことができるのかと驚くと同時に、明治人の受容性、応用力に脱帽せざるをえない。
 ところが、日米戦争におけるハードの大半は国産だったが、世界第一級といえるものではなく、また新技術にしばしば対応できていなかった。
 ハードやソフトの評価は次世代をみるとわかりやすい。
 例えば、海戦における艦砲の時代は第二次大戦の太平洋では終了していた。艦砲は最大三〇キロしか弾丸を飛ばせないが、飛行機は五〇〇キロ以上飛ぶことが可能である。その結果、一九四五年以降、戦艦や巡洋艦は古語となった。日米戦争における日本海軍のハードやソフトの大部分は旧弊なものとして忘れ去られた。
 ところが、日露戦争で日本海軍が実践した方法は模範として戦例となり、第一次大戦の海上決戦の基礎をなしているのである。
 要するに、外交にしても戦争にしても、明治から昭和にかけて日本人が単純に進歩したと考えてはならない。ある局面では日本人は退歩したり、技術競争に敗北したりしている。
 さて、東郷平八郎である。
 東郷はわかりやすい男である。そして多方面にわたる才能があった。語学だけとっても、夏目漱石を超える英語能力があった。そして、ルールをよく守った。
 第一次大戦からしばらくすると、帝国海軍に条約、艦隊両派による派閥抗争が発生した。東郷は艦隊派の長でもあった。
 そして、この派閥抗争は日本でよくみられる人事や人間関係をめぐってのものではない。珍しくも、軍政・艦政をめぐる政策論争だった。
 そして根本には、海軍は誰のものか? 海軍軍人は何のために戦うか? という問いがあった。
 東郷にとって、この質問にたいする回答は簡単だった。海軍は天皇=国民のものであり、立憲君主制の下の天皇(内閣の輔弼による〜助言と承認を得て)の命令により海軍軍人は戦う、すなわちイギリスの立憲君主制と同一である。これが艦隊派の基本であり、艦隊勤務をやる者の基本でもあった。
 条約派はこう考えない。最後の海軍大将であり、山本権兵衛に淵源を発する軍政畑=条約派の井上成美は次のように書いた。
「軍隊は国の独立を保持するものであって、政策に使うのは邪道と見ている。独立を保てぬという時は戦争をやるが、政策の具に使ってはならぬ。政策に使われた時、軍人は喜んで死ねるか。第一次大戦に駆逐艦を出したのは不可と思っていた」
 井上成美の論の問題は、「国の独立の保持」を誰が判断するかという点が欠落していることだ。おそらく、井上はそれを海軍軍人だと考えたのだろう。そうなれば立憲君主制の否定に向かう。
 井上が、国体(=立憲君主制)の改廃をめぐって、米内光政と最後に対立したことはいかにも筋を通した行動である。
 反対に東郷は、海軍軍人は天皇の命令=政策に忠実であるべきだと信じていた。満州事変の最中、東郷は条約派の谷口尚真海軍軍令部長を叱責した。谷口が「山海関に艦隊を派遣することは英米の介入を招く」といって反対したためである。東郷からみれば、英米介入について考えるのは内閣や外相の仕事であって、海軍軍人が考える必要はなかった。
 また、井上の論難する第一次大戦中の駆逐艦の地中海派遣は、当時の大隈重信内閣の打診に応え、海軍省軍務局長だった秋山真之が主唱したもので、確かに「政策」に従ったものである。だが、こういった小戦闘への参画と「国の独立の保持」との関係を判断できるのもやはり、海軍軍人ではなく、政治家や外交官ではないだろうか?
 そして、現代におきかえてみよう。内閣と議会が決定した「インド洋派遣=小戦闘への参画」という政策に海上自衛隊員は反対すべきだろうか? 現代のマスコミは時折「政治の道具に使われる自衛隊員は気の毒だ」と書く。井上の論は、これと同一線上にある気がしてならない。
 日露戦争における陸海軍の将領は、みなニコニコしている写真を残している。兵士も同じである。兵士の写真は、まるでオモチャの兵隊さんを連想させる。この点で現代の自衛隊と共通性がある。だが昭和軍人は明らかに異なっており、考えるあまりの苦痛の表情を浮かべている。
 明治維新から日露戦争までの間、日本は成功した国だった。そして一九四五年から現在までもおそらく成功した国だろう。だが、その間については失敗したことが否めない。
 昭和軍人は自分たちの戦争が終ったあと、敗因は経済力にしても政治体制にしても日本が外国より劣っていたからだと説明する。条約派の堀悌吉と山本五十六は「日本の文明は、欧米の先進国と比べて国民の覚醒において、百年は遅れている。学術界においても三十年遅れている。そして、わが海軍は十年遅れている」と第一次大戦直後、認め合ったという。
 こういった海軍は欧米よりも遅れている、国民はさらに遅れているという確信が、政府の決定=政策に従わず、海軍は政策の具にはならないという誤った考え方につながった可能性を否定しきれない。
 東郷平八郎は、日本や日本人に自信をもっていた。
 第一次大戦の決戦のマルヌ会戦に勝利し、また東郷の知りあいでもあったフランスの将軍ジョフルは戦況不振を伝える下僚に「お前はフランスを信じることができないのか」と叫んだ。
 東郷平八郎も昭和軍人に「お前たちは日本を信じることができないのか」と叫びたかっただろう。
井上成美のいう軍人にとり「喜んで死ねる情況」をみつけることは「青い鳥」を捜すようで難しい。だが、暗い表情をせず、近代人としての自我をすてさる勇気も、軍人が戦場に臨むとき必要な資質かもしれない。
 最後に、幾多のアドバイスをいただいた兵頭二十八師、イタリア海軍についてご教授いただいた吉川和篤氏、イラストをお願いした藤丸涼太画伯、本書の刊行にご尽力いただいた並木書房出版部のみなさまに感謝します。

別宮 暖朗(べつみや・だんろう)
1948年生まれ。東京大学経済学部卒業。西洋経済史専攻。その後信託銀行に入社、マクロ経済などの調査・企画を担当。退社後ロンドンにある証券企画調査会社のパートナー。歴史評論家。ホームページ『第一次大戦』(http://ww1.m78.com)を主宰するほか『ゲーム・ジャーナル』(シミュレーション・ジャーナル社)に執筆。著書に『中国、この困った隣人』(PHP研究所)、『戦争の正しい始め方、終わり方(共著)』『「坂の上の雲」では分からない旅順攻防戦』『軍事のイロハ』(並木書房)がある。