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謹んでこの一篇を戦死した満洲航空株式会社社員の英霊に捧げます。
新京管区 操縦士 下里 猛

目 次


第1章 岐阜陸軍飛行学校  7
第2章 満洲航空乗員訓練所  44
第3章 佳木斯管区  74
第4章 新京管区(1)  106
第5章 東部第百十七部隊  133
第6章 満洲航空整備工場  142
第7章 新京管区(2)  165
第8章 ソ連軍の侵攻  188
第9章 軍使輸送  209
第10章 外モンゴル空輸  230
あとがき


あとがき

 外モンゴル空輸から新京の満航社宅に帰った後は、日本人難民には働く所もなく、南下して空き家になった社宅の品物を売り食いする外はなかった。
 ソ連軍は旧満鉄社員の技術者を強制抑留して、不規則ながら列車を運行させていた。昭和二十年の暮れに、かねてからお願いしていた満鉄社員の瀬口さんから「哈爾濱に行く便がありますよ」という朗報が舞い込んで来た。まだ引き揚げは始まっていなかったが、闇乗車で南へ行く日本人は多いものの、北へ行く便は皆無であったから、私は喜んで便乗をお願いした。
 私は満鉄社員を装って、瀬口さんについて北上する列車に潜入して哈爾濱へ向かった。私達は一言も口を聞かず、窓の外を眺めて顔も見せなかったが、周りの中国人に「お前達は日本人だろう!」とすぐばれてしまった。
 私は今さら嘘も言えないので「シー、ジベンレン」(そうだ、日本人だ)と開き直った。「日本人がいる!」とざわめく中で隣に座っていた男が「蒋介石の声明文を知っているか?」と言うので「うん、知っている」とうなずいた。彼は例の「以徳報怨。怨を以て報いるのではなく、徳を以て接しよう」の声明文を滔々と述べて「それが自分たちの態度だ」とタイジン振りを示した。
 周りの野次馬達も「そうだ、そうだ!」と賛同した。私達は黙って聞くだけであった。昨日の一等国民は車内で行われた人民裁判の被告になったのである。しかしそのタイジンのお蔭で無事に哈爾濱に着くことができた。
 哈爾濱の家では私は戦死したものと思い込んでいたので、私の帰還を夢かと驚き喜んでくれた。哈爾濱の両親弟妹は皆無事ではあったが、敗戦国民の生命財産の保証は全くないことに変わりはなかった。私は早速一家の中心となって売り食いの路上に立ったのであった。
 年が明けて道路の雪が解け始めた頃、思いがけなく哈爾濱中学同級生の親友、金仲健が訪ねてきた。彼は哈中グライダー部で一緒に訓練を受け、終戦まで飛行協会の教官をしていたのである。戦後どういう経緯を辿ったかは知らないが、今は八路軍の幹部となり、高級参謀から「八路軍飛行学校の創設を任された」と言うのである。そこで私に「生命の安全は保証するから、ぜひ主任教官として参加してほしい」と頼むのである。
 私は思いもしない依頼に驚いたが「飛行機に乗れるなら八路軍でも何でも結構」と喜んで承諾した。まず人集めに気心の知れた哈中グライダー部員を入れたかったが、危険な情勢下では思うに任せず矢田と江口の両名の参加にとどまった。後は日本人居留民会にお願いして、飛行機、自動車の整備経験者を募集して二〇人ほどの隊員を確保した。
 ソ連軍占領下の哈爾濱では連合国の認めた正当な政府は国民党政府で、八路軍の共産党は非承認の政権であるので市内には入れなかった。当時、市内には少数の国民党軍がいたが、哈爾濱の周囲はすでに八路軍が包囲して、ソ連軍が引き上げると同時に市内に突入する態勢にあった。
 私達は夜明け前、暗闇に乗じてトラックで国民党軍警戒線を突破し哈爾濱を脱出して郊外の平房飛行場に到着した。飛行場には一個小隊ばかりの八路軍が警備していた。平房は日本軍の第一二野戦航空修理廠と七三一部隊があった飛行場である。我々の当面の任務は日本軍が残していった飛行機を修理することであった。私が修理可能と診断した飛行機は九九式襲撃機とY‐39輸送機で、早速翌日から作業に取りかかった。
 その頃から国共内戦が激しくなり、長春を占領した国民党軍が第二松花江まで北上してきた。当時の八路軍は弱小で、戦線を縮小して防衛に努めた。その結果、平房の飛行学校を放棄して、機材を東部国境の牡丹江に移すように命ぜられた。哈爾濱の司令部から派遣された党委員は穏やかに「私はピストルを突きつけて皆さんを牡丹江に連れて行くことはできる。しかし私は皆さんの自由意思を尊重しますから思い通りに決めてください」と強制しないことを誓った。
 私は金仲健の言葉を信じて「安全を保証する」と言って募集した責任があるので「哈爾濱近郊を離れてまでお願いする積もりはありません。どうぞ自由に決めてください。私は哈爾濱へ帰ります」と真っ先に不参加宣言をした。私への義理立てで危険を冒させては申し訳ないと思ったからである。
 責任者の金仲健も「それでいいのだ」と私の発言に賛同した。これで哈中の全員が不参加に決まった。牡丹江へ移転を希望したのは僅かであった。その日のうちに不参加組は市内までトラックで送ってくれた。
 それから数カ月後に哈爾濱の日本人引き揚げが開始された。私達の集団が哈爾濱駅を出発する時、私にはたった一人の見送り人があった。だれも日本人との関わりを嫌って見向きもしないこの時期に、堂々と見送りに来たのはあの親友の金仲健であった。二人は流れる涙を拭いもせず「元気でなー、また会おうぜ!」と肩を抱き合って別れたのであった。

 最後に、私が働いた満洲航空について、若干の補足説明をして本書の終わりとしたい。
 昭和六年(一九三一年)九月十八日、柳条湖の鉄道爆破事件に端を発した満洲事変は、戦火を拡大して満洲全土に広がった。関東軍は各地の相互連絡をとるために、それまでの鉄道を介した地上連絡だけでなく、空中連絡が必要となってきた。そのため、関東軍は奉天の日本航空代表部に対し、満洲各地を結ぶ軍用定期航空路の開設を命じる。この業務実施のため本部を奉天の張作霖公館に置き、「関東軍軍用航空本部」と「日本航空奉天代表部」の二つの看板を掲げて活動の拠点とした。その後、軍用定期航空路は満洲全土に急速に拡張され、司令部要員や傷病兵の輸送、弾薬、食料の補給などで実績を上げた。
 翌七年三月、関東軍は満洲国を発足させ、同年九月二十六日に満州航空株式会社を創立させた。そして関東軍軍用定期事務所はそっくり新会社に引き継がれた。満州航空株式会社の資本金に関しては、関東軍と満洲国政府との間で次のように取り決められた。一、満州航空の資本金は満州国通貨で三八五万円とする。二、満洲国政府の払込金は一一〇万円。三、満鉄の払込金は一六五万円。四、住友合資会社の払込金は一一〇万円とする。これが設立当初の資本金の拠出内訳であるが、満州国政府はこの他に毎年補助金を出している。満州国政府の実質的支配者は関東軍であり、満州航空の社長以下幹部は全て関東軍出身者で、現場も軍人出身者が大半を占めていた。当時は、我々のような若い乗務員には会社の実態はよく分からず、ただガムシャラに働いてきただけであった。乗務員の全員が関東軍司令部嘱託という身分であったが、給与は会社から出るので無給嘱託である。満洲航空会社は営利が目的ではなく、全くの国策会社であった。
 会社の公式の業務は定期飛行の他に貨物輸送、遊覧飛行、貸し切り飛行、宣伝飛行などが航空案内に示されている。主な付帯事業としては航空写真処と航空整備工場、乗員訓練所などがあった。軍用臨時便は関東軍の要請に応じて、数多く国内外で実施されていた。
 関東軍の大部隊が南方戦線に出動する時は、その輸送隊として社内召集で幾つもの部隊編成がされて、南方戦線に出動している。また軍用機輸送隊も社内で編成されて、内地の飛行機工場から戦闘機、爆撃機などを戦線に輸送する編隊もあった。
 満洲航空株式会社は、満州事変で関東軍の要請によって誕生し、関東軍とともに歩み、昭和二十年の敗戦をもって消え去ったのである。

 本文の内容は昭和十七年の初頭から二十一年末までの私の体験記である。わずか五年の期間であるが、それは現在の生活の五年間と、同じ長さであるとはとても私には信じられない波瀾万丈の時代であった。
 当時の私の年齢は一九歳から二四歳の青春時代の真っ盛りである。時代背景は第二次世界大戦の砲煙立ちのぼるさ中である。この動乱の時代を、当時の若者たちはどのように生き抜き、そして斃れていったか。私は現代社会からは想像もできない、当時の若者像をぜひ語り継ぎたいとかねがね思っていた。
 戦後、落ちついた私は哈爾濱会や哈爾濱小学校(のちの桃山小学校)、中学校の同窓会誌等に満洲の思い出を書いて投稿していた。その文を読まれた宮坂敬三さんから「満洲の話を一冊の本にまとめて書いてみませんか」と勧められ、その気になって書き始めたのである。宮坂さんは哈爾濱小学校、中学校の私の後輩で、出版社に勤める専門家である。具体的な出版の話になったのは、宮坂さんが私の手記を並木書房の奈須田若仁さんに推薦されたからである。
 私の永年の夢が、お二人のご好意とご尽力により実現されたのである。私はこの著書が出版されれば、もうこの世に思い残すことはないと感激している。紙上をお借りして、お二人に心から感謝申し上げる次第である。
二〇〇〇年五月
下 里 猛

下里 猛(しもざと・たけし)
大正12年哈爾濱生まれ。哈爾濱西本願寺幼稚園、哈爾濱小学校、哈爾濱中学校卒業。昭和12年哈爾濱中学在学中に飛行協会入会。グライダー、ユングマンの訓練を受ける。昭和14年津田沼町帝国飛行学校入学。2等操縦士免許取得。昭和15年飛行協会哈爾濱支部教官。昭和17年岐阜陸軍飛行学校入校。昭和18年満洲航空株式会社入社。1等操縦士、2等航空士免許取得。昭和21年哈爾濱市より引き揚げる。昭和23年より長崎市立各小学校勤務、一級教員免許取得。昭和57年有益語学学院日本語講師、平成4年退職、現在に至る。